なぜ「論語」を読むのか?- フランス語訳を読んで考えたこと

フランス支那学という近代の学問の解釈によるものなのか、素人の私には正しく判断できないでいるが、「論語」において「君子」と指示されているものは、フランス語でフラットに「人間」と訳されている。素直に、驚く。たしかに、規範的定義の枠組みにとらわれずに、人間が人間自身に問うというラジカルさがこの本にあることは感じてとっていた。なぜ「論語」を読むのか?読むことの意味を考えるということがある。古学派の仁斎の注釈によって原初的テクストを読むーいきなりというか顔回という最愛の後継者を失って天に向かって嘆く孔子と共に絶望するために、やむを得ずどうしても不可能な未来を考えるために、そしてほかならない悲劇から、突き動かされて、他の道に繋がる新しい思考のイメージを自己のものとするために