言葉と物のコンパクトな世界 No. 11

言葉と物のコンパクトな世界 No. 11

本居宣長の仕事のユニークなのは、言語の存在と人間(共同体)の存在とを同時にあつかっているところにある、と、私のような素人でもそれなりになんとかわかります。ただ、この「同時」というのは、何でしょうか?宣長の場合は、一方で、漢字で書かれた古事記から「大和言葉」といわれるものをどう読みだすかの研究と思考(「神」(シン)をカミと読むのが宣長の読み)があり、他方で、他の文明(中国文明)から自立することをもとめた(思考に還元できない)書く行為があった、というのが私の理解です。しかし加藤周一のように、カントがともかくもその分割を示した、経験的なものと先験的なものを、あらかじめ、ひそかに混ぜ合わせてしまうと、「宣長問題」が生じてくるようにみえます。子安氏はその「宣長問題」について言及しています。加藤が「ハイデガー問題」との関連で「宣長問題」を行ったのは朝日新聞夕刊(1988年3月22日)掲載「夕陽妄語」の「宣長ハイデガー・ワルハイム」と題された文章においてです。加藤がいう「宣長問題」とは次のような「宣長における謎」を指しています。「今さらいうまでもなく、宣長の古代日本語研究が、その厳密な実証性において画期的であるのに対し、その同じ学者が、上田秋成もしたように、粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えたのは、何故かということである」。これにたいしては、子安氏がそれは「加藤が作り上げている謎」とズバリ指摘しています。近代主義の顕著な先験性の思い上がりというか、日本思想史も「知の巨人」とたたえられた近代主義者と同じようにしか考えないという話がでました。

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