「論語」の世界 No. 8 ー安倍自民党がアナクロ的に称える<教育勅語の国民>を批判する

論語」の世界 No. 8
ー安倍自民党アナクロ的に称える<教育勅語の国民>を批判する

小田実はこう言った。「民主主義というのは、しゃべることによって成立する。言っておくけど、これはローマにはありません。ローマとギリシャを混同しないでください。ローマに民主主義はありませんからね。ただ選挙していただけ。日本と同じです。」子安氏の解説によると、われわれは選挙を民主主義と思っているけど、小田はそれはローマと同じだというのである。小田は続けて言う。「日本は天皇制近代国家であって、民主国家じゃなかった。特異な国なんですよ。普通、近代国家には民主主義がついてるのだけれど、これを省いて天皇制近代国家をつくった。これを忘れてはいけないです。だからローマが好きなんだよ。いまだに大好きじゃない。」子安氏によると、近代天皇制国家の理念的な枠組みは漢学者が作った。小田的に言えば、「日本人は古代中国が好きなんだよ」。問題を整理しよう。ヨーロッパに古代ローマが残っているように、たしかに中国文明に負うアジアに古代中国が残ってしまったのである。一例として、皇帝から与えられるという(「大学」を中心とした)儒家の国家哲学的教説体系をもっとも純粋可したのが、明治の教育勅語なのである。(正確には「教育ニ関スル勅語」。国民道徳の基本を示し、教育の根底理念を明らかにするために、1890年10月30日に発布された。)この教育勅語は<なりすまし>「論語」だから注意しよう!と私は言いたい。そして警戒を要するのは、ここに、安倍自民党アナクロ的に称える<教育勅語の国民>があるということだ。しかしここには、しゃべる市民も宇宙の人類愛も存在しない。なぜ仁斎が「論語」を絶対化していくことが儒家の国家哲学的教説体系(朱子)を逸脱していくことを意味したのかが理解できる。それは、明治の教育勅語のモデルである儒家の国家哲学的教説体系に、その他者である「論語」が存在しないからである。