漢字論とはなにか No. 2

  • 「元来漢字は外来的なものであって、常識的にはこれを客体的存在として考へ、これをその借用といふ観念で律するといふことはやむを得ない」ことだと時枝もいうのである。時枝はここで一つの比喩を使いながらこの借り物的用字法を転換させる。たとえば人が望遠鏡でもってものを見る場合を考えよう。望遠鏡が眼の代用であるかぎり「見る」という機能において眼で見ると望遠鏡で見るとでは変わりない。それと同様に、漢字を借用しても、「書く」という表現機能における文字使用ということでは変わりはないはずである。主体的言語行為として日本語の記載を考えるならば、もはやわれわれは己に外在する漢字を借用するという従来の用字法的立場で漢字を見ることは止めるべきだと時枝はいうのである。「書く」という記載主体の表現機能において見るとき、漢字と仮名との間にはもはや区別はない。既に望遠鏡の例を以て説明した様に、それが国語を表現するといふことになるならば、その関係は、借りる者と借りられる物との関係ではなく、借りられる物は、表現の機能として考へられる。漢字を日本語の記載主体の表現機能においてとらえるな...らば、もはや漢字は言語主体の外部にあって借りる者と借りられる物といった関係でとらえられるものではない。漢字は文字的言語機能をもって、仮名文字と同様に日本語の言語過程に内在すると考えなければならないのである。かくて、文字を言語過程の記載行為という一段階として考えるという時枝言語過程説は、漢字を他の平仮名・片仮名と同様に日本語の記載過程に内在化させて理解する新国語学を成立させるのだ。」 ー 子安宣邦氏「漢字論」、漢字と「国語の事実」

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