オスカー・ワイルドとは誰だったのか ーグローバル資本主義の時代に読み直される

オスカー・ワイルドとは誰だったのか

1990年代にオスカー・ワイルドの読み直しがアイルランドで始まる。それはなぜか?19世紀末のワイルドは台頭してきたゲール文芸復興のケルト神話にそれほど依拠しなかったという。言及も殆ど無い。民衆を異形の姿でおどろおどろしく表現した想像には、植民地主義者(ヴィクトリア帝国は消費社会であった。)を安心させる秩序が投射されているからで、このように消費される「おどろおどろしさ」に拠らないのが、ほかならない、アナーキーズムのストーリーテラーとしてのワイルドの立ち位置であった。このことはこういう風にも考えることもできるだろう。民衆の姿を異形の姿でおどろおどろしく表現した想像に、近代で失われた本物の顔を取り返すユートピアがあるが、仮面(代理)の下にただ仮面(代理)の破片しかないことを忘れさせる。しかしワイルドは偽物しかないことを忘れなかった。ワイルドほど、どんなに機智富んでいてもどこまでも凡庸な、ホンモノ性で飾られる偽物の格言を好む人はいなかった。このアイルランド人は凡庸な言説というか、本物性を語る言説に警戒したというか。たしかに、ホンモノにこだわる反帝国主義者.・民族主義者ほど帝国主義者に似てくるものはないのである。グローバル時代に、このことを考えることの意味は大きい。