「人間の肉体は 鍵のかからない密室です」(寺山修司)。それなのに/だからこそ、鍵のかかった誰も入れない私一人だけの部屋に入る。しかし... カラバッジオ「俺を見てくれ、父さん。(彼はナイフで空に描く) こうやって俺は死ぬ。こうして自分を殺す。こうして絵を描くんだ。生きているものを描く。その命の中に、俺は自分の死を見る。俺は自分の手を止めることができない。自分の死を止めることができない。だけど、俺は自分が描く者に、平和をもたらすことはできる。」
(フランク・マックギネス「イノセンス」1986、三神弘子訳)
暗闇の中に差し出された赦しを請う首。「鍵の掛かった誰も入れぬ一人だけの部屋で私は絵を見ている」と言うことは可能か。「私」と指示された光が外部へ出てしまったかもしれない
対角線の輝く闇。宙の足裏。地上からの抱擁。「鍵の掛かった誰も入れぬ一人だけの部屋で私は絵を見ている」と言えるか。「私」と指示された世界が外部へ出てしまったかもしれない
解読中に、いきなり現れた日付を伝える指。「鍵の掛かった誰も入れぬ一人だけの部屋で私は絵を見ている」と言えるか。「私」と指示された未来が外へ出てしまったかもしれないのに
魂の形である不死の骸骨と共に書くこと。「鍵の掛かった誰も入れぬ一人だけの部屋で私は絵を見ている」と言えるか。「私」と指示された死が外部へ出てしまったかもしれないのに
外部である世界の中心に動物を置くこと、「鍵の掛かった誰も入れぬ一人だけの部屋で私は絵を見ている」と言えるか。「私」と指示された少年が既に脱出してまったかもしれないのに
いきなりやってきた中断、沈黙と無関心と暴力、「鍵の掛かった誰も入れぬ一人だけの部屋で私は絵を見ている」と言えるだろうか。「私」と指示された不死が外部へ出てしまったあとに
隣人の危険人物、裏切りの指差し、「まさか」と当惑する驚き。「鍵の掛かった誰も入れぬ一人だけの部屋で私は絵を見ている」と言えるか。「私」と指示された確実性が脱出した後で
目前に迫る死、仮面の悲鳴、結び目をつくるロープ。「鍵の掛かった誰も入れぬ一人だけの部屋で私は絵を見ている」と言えない。「私」と指示された生が既に脱出したかもしれないから
絵は教訓「死をおもえ」から逸脱する。いくら死が眼の前に迫っていても生きている限り生から逃れられないのだから死を知ることができない。それは一が多を知ることができないが如く
反時代的なサーベル、動物の牙、天地間の循環する海の球。「鍵の掛かった誰も入れぬ一人だけの部屋で私は絵を見ている」と言えるか。「私」と指示された宇宙が外へ出てしまったかも
葡萄の掌、真珠の涙、愛するものと愛されるもの。「鍵をしめて誰も入れない一人だけの部屋で私は絵を見ている」と言えるか。もし「私」と指示された音楽が脱出してしまった後に
彗星の眉毛、蜂蜜の唇、誘惑してくる眼差し。「鍵をしめて誰も入れない一人だけの部屋で私は絵を見ている」と言えるか。「私」と指示された蝶々は脱出してしまったかもしれないのに
「精神は自分自身を見てもそこに判明に表現されていることしか読み取ることができない。精神は自分の襞ses replisを一度にすっかり展開させることはできない。その襞は無限に及んでいるのである」(ライプニッツ、モナド論)
誰も入ってこれない唯一人の部屋で「精神は自分自身の投射を見るために宇宙における自分の襞を広げる」と言えるか?鍵をかける前に「精神」と指示された言葉が脱出したかもしれない
もし誰も入って来れない一人だけの部屋で、「作家は最後に自身の署名と執筆した滞在都市の名を書き記して本を完成させる」ことが可能だろう?鍵をかける前に、「作家」と指示されたダブリンが脱出したかもしれないのに...
自立するために、再び全体性の包摂に絡み取られない思考の柔軟性。べラスケスの絵みたいな本。誰も入れぬ私一人だけの部屋で本を読む。不可能だ。鍵をかけたとき本が脱出したかも
わたしにはもはや希望がない
盲たちはある出口について語っている
わたしは見る
(「映画史の本文の前に置かれた映像と言葉。ゴダールとマリーミエヴィルのテレビ番組「6x2」(76)のなかより)
出口から切り離してはいけないものが理念的にある。ゴダールは話す。「私にはもはや希望がない。盲たちはある出口について語っている。私は見る 」。話すことと見ること
波は至るところに。
高慢に先行した時の名が
左の方向に消えゆく。
充満している隙間たちが
死者達の息を吸い尽くすまえに
絶望的に、再び波が右の方角から
勝手に時の名を決めてくる