詩と映画

ポストモダンからは詩と散文の区別が無くなる。詩と映画の区別もなくなってくる。タルコフスキーの詩に喚起された詩的映画は存在していたが、「映画史」ゴダールからはじめて、詩のもっている意味への問いが、映画のもつ意味への問いと重なり合うのであった。死者、トリフォーの魂が呼び出される。それ(映画?)を経験した者が死んだ後も生き残る様々な感覚、感覚相互の繋がりの束は、客観道徳ーグローバル資本主義に対する防波堤ーと切り離してはいけない‬。1990年代から、モンタージュの理念の再構成がはじまる。

ポストモダン的に、詩と散文の区別が無くなった。デユラスは映画を介して詩と演劇の区別をやめていた。もはやゴダール映画に詩と映画の区別もない。まだなお映画に与えられている役割は何か?それは、ポピュリズムの時代の観客に、「公の嘘のナレーション」を批判的に観察させる投射ではないだろうか