平家物語からかんがえること

‪「平家物語」といえば、盲人と語りのテクスト。解説によると、晴眼者が盲人を真似て語ることがあったらしい。聴き手に向かって開かれる語りに着眼する論者は、語り系のテクストの存在すること自体に疑問をもつという。本を閉じるとき、ここに展開されている滅びの美学は、嗚呼、「映画史」の芸術至上主義に通じるのかしらなどと考えたりする。ウィットゲンシュタインの盲人との対話からの引用が繰り返し行われることを思い出す。思考は、世界の存在を疑う前に、(その世界を)見ることの自明性を疑う所まで行く。究極の所では、「編集」と「書くこと」の区別はなんの意味もなさないだろう。死に装束のようなスクリーンも白紙の本の間に本質的な違いはない。(映画と現実世界とが互いに溶け合って区別がなくなったという観念に憑かれたゴダールオブセッションを受け入れたうえで)、栄光の映画の世紀が終わり最も重要な映画たちが思い返されなくなったという意味で、映画が滅んでしまった。世界は終わったのだ。たとえ同時代の観客には説明なしでわかっていたのに、もはや現在のわれわれはスクリーン上の死者たち(魂)の言葉とジェスチャーの意味を読み解くことができない。絶望しているが、なお映画について話すことに意味があるか?この悲惨の時代にまだ意味をなすことがあるとしたら、それは何か?‬