翻訳

古事記』の小説風の現代語訳となると、近代文学は自分が一体何を訳しているのか自分でも分からないだろうーもしかしたら「古典」の名で小説は自分自身を翻訳しているだけかもしれない、と、読者の中にはそれを見抜く人もいるはずだ。今回『方丈記』の古典を訳す感じで『教育勅語』を訳したのは、勝手な教説を押しつけられないためであった。そういうカウンターが反権威主義のネットの場で拡散しているのは大事だし、その意図に大いなる敬意を表するものだが、その翻訳についても、これを読むとき、対抗的に、戦後民主主義が自分自身を翻訳したというような印象がどうしてもある。(私の読み間違えかもしれないが。) 現代語訳に終わることなく、それを発展させるために、どうして「国体」の教説が、ほかの「古事記」や「万葉集」の読み、吉田松陰の読み、国民道徳と靖国言説と一緒に一体をなして、人びとを心の中心から洗脳させてしまうことになったのかという問題を分析できるような、『教育勅語』の批判的注釈も必要となるだろうし、そこから昭和の近代を相対化していく思想がつくられていくことに期待したいのである。私も努力する。デモクラシーを充実させていく、グローバル時代の新しい普遍主義をさがしている所に、時代遅れの「教育勅語」を声高に言う19世紀・20世紀国家を作り直そうと一生懸命の悪い形に
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