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「弁名」ノート‬ No. 22 ( 私の文学的フットノート)

‪ 「弁名」ノート‬ No. 22 ( 私の文学的フットノート) 子安氏の評釈によると、「『礼楽』とは徂徠のいう先王の道の根幹をなす概念である」、「それは祭祀典礼を構成する礼楽に、人間社会を文化的な共同体として形成していく上でもつ重要な意味と機能とを見いだすところから導かれてくる概念であるだろう。したがって礼楽を最重要な契機とする先王の道は、文というメタファーでいわれるのである。」という。‬

‪ここで言及されている礼楽と徳について徂徠がどう言っていたかを考えてみる前に、子安氏が呈示した徂徠の人間社会の構成論の特殊性と全体性はいかなる関係に立つのかを問うた見取り図をもう一回みておこう。互いに共通のものがない特殊性は、共通点がないその理由をもってして、共通点なき全体を形成する、と言うこともできる。問題はそこから何を言っていくかにかかっている。これについて、『弁名』に即して言うと、人の性とは生まれつきの性質であり、人ごとに異なる特殊性である。人の性がこのように特殊性となるとき、そこからどのように人びとは社会の全体性に連なりうるのか。さて「由らしむべきもの」と徂徠がいうとき、外部的にあるその道は、再び、一般性においてしか成り立たないような理(徂徠が理解している仁斎的言説すら含んだ朱子学的「理」)の内部にもとめることは倫理的に不可能だろう。民は外部的に由るのは、ほかならない、礼楽である。この礼楽は書記言語性に関係している。文は「先王の道」のメタファーであるからである、と同時に、外部の道のメタファーと言うことがゆるされるだろうか。「それぞれの徳を礼楽をもって文(かざる)というのは、その徳性の所有者をこの文化的な世界の意味ある構成者たらしめていくということである」(子安氏、『徂徠学講義』)‬