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‪‪‪「弁名」ノート‬ No. 32 ( 私の文学的フットノート)

‪‪‪「弁名」ノート‬ No. 32 ( 私の文学的フットノート)

‪徂徠はここで、格物窮理と世俗の知について述べている。聖人の叡智と君子の知と人の分別知を区別している。ここでのポイントは、「古えの天子は、聡明叡智の徳有りて、天地の道に通じ、人物の性を尽くし、制作する所あり、功は神明に侔(ひと)し」(『弁名』聖)といわれる叡智である。子安氏の評釈によると、「徂徠において聖人による制作するゆえんとしてある聡明叡智は、朱子たちにとっては宇宙の哲理に貫徹する聖人の叡智である。世界の存立の究極にかかわりながら聖人の叡智をとらえることにおいて朱子も徂徠も同じである。問題はこの世界内の存在であるわれわれの知が、この叡智との内的な連関をもつのか、どうかということである。」‬

聖人の叡智と学者の知(静座という心的工夫)は切り離すことができないが、評釈にあるように、徂徠は制作者聖人を「神明に侔(ひと)し」いとする徂徠は、この聖人の制作するゆえんとしての叡智と、制作された世界内の存在としてののわれわれの知との間を切り離すのである。「叡智とは大なる聖人の智徳であり、学んで到りうるものではないのである」(子安)。そうして、徂徠によってはじめて、聖人の叡智といわれる世界の全体性にかかわる知は超越化され、その世界内の人間の知を超えるものとして位置づけられることになったという。「世界の全体性にかかわる智は、制作者聖人の叡智として超越化される」(子安)。「この聖人の‬

‪制作になる世界の経営に責任をもつ君子(為政者・在位の君子)は、先王・聖人の制作の迹に学びながら、この先王的世界の後世における再構成的な経営者(為政者)としてのチを形成していくのである」(子安) 「そして聖人の叡智との内的連関を遮断された格物は、ただ世俗の分別知を構成していくのである。」‬

‪ 「聖人の叡智」といわれる世界の全体性にかかわる知とその世界内の人間の知、このふたつの知を切り離してしまっては、独立した後者の知は自らの内部に前者の知と等価のものを作り出す危険がある。むしろふたつを切り離してはいけない。世界の全体性にかかわる知から、その世界内の人間の知が外部の位置を以ていかに自立していくかということを問うこと‬

孔子曰く、「撰(えら)んで仁に処(お)らんずば、いずくんぞ知たるをえん」と。また曰く、「知者は仁を利とす」と。これその意に謂(おも)えらく、仁のこれ尚(くわ)うることなきを知ると。知らざる者はすなわち謂えらく、天下の理を窮尽して、しかるのち仁のこれ尚うることなきを知ると。故に宗儒の格物窮理の説明あり。また窮理はもと聖人の易を作りしを賛するの言にして、学者の事に非ざるを知らず。大学のいわゆる格物とは、その事に習うの久しき、自然に得る所あり、得る所ありてしかる後、知る所始めて明らかなるを謂う。「物格(きた)りてしかるのち知至る」と。あに天下の理を窮尽するの謂いならんや。いやしくも先王の教えに()いて、その事に習うの久しきに非ずんば、すなわち知る所はみな世俗の知なり。何を以て能く仁の尚(たっと)ぶべきことを知らんや。故に孔子のいわゆる「礼を知る」「言を知る」「命を知る」「人を知る」は、みな先王の道を以てこれを言うものなり。宗儒のいわゆる格物窮理、是れを是れとし非を非とするの類は、みな世俗の智を以てこれを言うものなり‬