カリエール

‪「見ておきなさい...」と告げられて、あまりみたくなかったが、映画「昼顔」のテーマとド・ヌーヴに同一化していた母と繰り返しこれを何回観たのかわからないのである。私のダブリン時代のパリ体験のことだったけれど、後年パリのスタジオにやってきた脚本家カリエールをみたとき 、「この人があれを?」と感慨無量だった。「化け物」というか、非常に「重厚な」というか、彼のもつその雰囲気に圧倒されながら、そのときは、シュールレアリスムというのは、知識人が反知性的に表現していくという考えが頭に浮かんだ。しかし反知性的はなんのために?何もかも根拠づける「理」において隠蔽されているその隠蔽を表現していくのというか。大島渚はブニエルからの影響を語るように、彼の陰険かつ欺瞞的なものを指示する映画はシュールレアリスム的なのだ。さてル・ペン(父)が頭角をあらわしてきた時代に、対抗的に、このカルエールの意味は何であったかを自らに問う。思い出すことは、彼の芝居が行われたその年のクリスマスのテレビに、「きょうこの日は、どこでもこの日がキリスト教徒の日としてと同じようにお祝いされるわけではないということ、この日を別の意味を与えるそういう人びとがほかに存在することをフランス人は知らなければいけない日なのではないでしょうか」というようなことを喋った。この道だけではない。他の道のこともあることを考えることが大事だと促すメッセージだということはわたしにもわかった。「見ておきなさい」は何が指示されているかを言葉でとらえきれないが、たしかに、何か大切なことが語られているということを信じていた言葉なのだろうか、そうかもしれない、やっとわかったというか...