三木清

‪「私はいま人間の不死を立証しようとも、或いはまた否定しようともするのではない。私のいおうと欲するのは、死者の生命を考えることは生者の生命を考えることよりも論理的に一層困難であることはあり得ないということである。死は観念である。それだから観念の力に頼って人生を生きようとするものは死の思想をつかむことから出発するのがつねである。すべての宗教がそうである。」(三木清)‬


‪• マルクス主義思想ならば「死は物資である」?親鸞を読む三木清は「死は観念である」という。これは世界思想とおもう。とりわけマルクス主義にとっては、この言葉は衝撃的である。西田幾多郎親鸞を読んだ。だけれど、三木が掴んだ他者としての死のあり方は、かれの言葉通りに、観念から独立することはないのであるー所謂西田哲学のようには。むしろ問題となるのは、観念から自立する観念なのかもしれない。結局親鸞を読むとは、ほかならない、書かれた言葉、テクストを読むことだからである。問われるのは、宗教的でなく倫理的であるどうかだけである。もちろん文化的ではあり得ないー和辻哲学がいうようには‬ (わたしは西田と和辻をよくわかっていないのだけれど)