国民道徳の恐怖と貧困

国民道徳の恐怖と貧困 

Q. この国で一番ヤバイ言葉はなんですか?

A. ヤバイというのはどういう意味ですか?

Q. 日本人が心の中から洗脳された言葉です

A. ああ、それならば、吉田松陰の「至誠」です。

Q. 吉田松陰ならば、現在国営放送の大河ドラマであつかわれていますね。かれの言葉でいつ洗脳されたのですか?

A. 昭和15年から20年までこの「至誠」ということばは通用していました。戦争中につくられていくのです。しかし昭和20年以降は通じなくなりました。

Q.どうしてその言葉が戦争中につくられていくのですか?

A. 吉田松陰の「至誠」は、すべてをあからさまにしていけば人を動かせるというかれの思い込みです。むざむざ言う必要がないとされました。つまりこれが日本人の心情的一体感を一方向に規定していくイデオロギーとして国民の戦争動員に役立ちました。

Q.「至誠」は日本人のなかに浸透する力をもつのですね

A. 安倍自民党というのはズバリ、「至誠党」のこと、ヤバイ、ヤバイ

Q. 「至誠」は、古代に遡る日本人の心情的一体感ではないのですか?

A. 誰か見てきた人がいるのですか?(笑) そんな日本のメンタリティーはつくられただけで、近代以前にはなかったのです。正確にいえば・・・

Q. あるとも、ないともいえないものですね。

A. はい。「至誠」と類似した概念に、和辻哲郎がいう「清明」があります。万葉集から読み解いたこの「清明」は共同体との一致を意味し、反対に、「汚い心」は共同体から離れている状態です。しかし「清明」というのは、(解釈学の)ディルタイの和辻にしてはじめてできるような日本人の理念史の構成でしかないことを子安宣邦氏は強調しています。

Q. 和辻は、東京大学の東洋倫理学史の講座をつくった学者ですね。

A. 和辻の位置をつかむために、すこし大学の制度の由来について説明しますと、そもそも東京大学文学部の<倫理学>は、エシックス(西洋学)ー市民としていかにあるべきかを考える市民倫理学ーからはじまります。これが、明治末から大正・昭和にかけて師範学校(教育大学の前身)の教育指導者(校長等)によって義務教育で「公民」として教えられていきますね。<倫理学>は市民倫理学であったから国民道徳ではありませんでした。しかし義務教育ではあえて「市民」とは呼ばずに「公民」と言いました。これに関しては、子安氏が注目している「大逆事件」が起きたことの危機感が国家の側に起きたことを考えてみることができます。多分「大逆事件」の影響で、国家倫理としての国民道徳が説かれてきます。その中心に井上哲次郎がいました。しかし子安氏がみるところでは、この<国民道徳>は、東京大学に来た和辻の和辻流モダンな<日本倫理思想史>にスムーズに置き換えられいきます。が、ある意味で、和辻は、井上の国民道徳よりも強力なものを学問的につくってしまったといえるかもしれません。それが人倫国家の心情一体の共同性の理念です。その和辻がいた、(東大右翼ボスと自民党ボスの巣穴。儒学史の漢文を読む宇野精一等の) <東洋倫理学史>も、(東京大学の最右翼の)<支那哲学>によって無くなってしまうのは、溝口雄三の中国語で読む方法が大きな影響力をもちはじめたからです。ここで戦前・戦後の京都学派とは異なるアプローチで中国をとらえる日本的国策的ポストコロニアリズム的研究が展開しているようです。

Q. 国民道徳の方は消滅してしまったのですか?

A.いいえ、子安氏によると、戦後の東京大学倫理学は、1・5講座から成り立っていて、そのうち1が倫理学で、0.5が国民道徳だったそうです。「文学部のあり方は戦後変わったようで変わらなかった。68年以降に、80年代から変わり始めた」と証言しています。 現在さらに国民道徳は、安倍自民党の文部省によって義務教育のなかにおしつけられようとしています。子供・生徒たちが洗脳されていく国民道徳の恐怖と貧困、という大変危険な状況であります。

Q.ついでに、転向論ですが、いわゆる転向論は、転向を '国体' の側に、非転向を(対抗的な) '反国体'の側に配置したうえで、やや図式的・機械的に、後者から前者を非難してきたのですけれど、現在は、戦後憲法のもとで、(国体的な問題は起きてきますが) 戦前とまったく同じ国体の権力構造は存在していません。現在なお、転向論にこだわることはどれくらい重要でしょうか?

A.「君が代」や「日の丸」にしたがわない現場にとっては、戦前の昭和ファシズムはなにを意味したかを考えるためにやはり転向論の意義はなくならないとおもいます。ただ、これからなにが起きるのかを考えようとするならば、戦争に直結した問題として、首相の靖国公式参拝の問題があります。戦前の天皇ファシズム憲法をつくり、軍を統帥し、そして死者を祀る権力を拠り所にしていたが、戦後の平和憲法はこの三つを断ち切りましたね。ところが首相の公式参拝によって、戦前との連続性、戦う国家=祀る国家が回復していく危険性があります。現実に、靖国神社へ行く安倍の民族差別的発言からはじまった、東アジア...諸国の互いに憎悪し合う緊張した関係は、領土問題を契機に、危機的にエスカレートしてきました。歴史修正主義者の安倍に連鎖的に巻き込まれていく東アジアの政治家たちは、領土問題は戦争によってしか解決しないという過去の失敗を完全に忘却した?グローバル資本主義の時代に、戦争をつくっていく国民道徳の恐怖と貧困こそが、現在緊急に解決すべき最重要な問題としてあり、これをはなれて、昭和ファシズムの時代に知識人が転向したかしなかったかだけを論じ続ければ十分でしょうか。

Q.転向論は日本だけでおこなわれている類の議論なのですか?

A.海外では知識人のファシズム協力の問題はありますが、転向論というのはないのではないでしょうか。殆どの転向論が文学という切り口なのですが、私が知る限り、このような転向論は外国に存在しません。「至誠」であれ「清明」であれ、日本人の伝統的メンタリティーとそれが近代化・西欧化によって被った変質との間で知識人が遭遇せざるを得なかった難問、という形の問いはあまりに日本だけの問いかけです。それでも、思想問題として検討する価値がある稀なものとしては、吉本隆明があります。ポストモダン建築の分野からこの問題へのアプローチがありますから、二つの文を別のところで紹介したいとおもいます。

 

<参考 1>

 

「転向論と建築」八束はじめ
未完の帝国ーナチス・ドイツの建築と都市、1991) より

日本の「転向」論ではひさしく前から、焦点をもっと内的な要因へと移行させている。論点によって力点、着眼点に差こそあれ、それらは基本的に、日本人の伝統的メンタリティーとそれが近代化、欧化によって被った変質との間で知識人が遭遇せざるを得なかったアポリア、という形で問題を立てようとしている。この辺りのアプローチの細かさ(?)は、対象がというだけでなく考察を立てる側においても、かなり日本独自の地勢学があるようにもおもえる。とりわけ殆どの転向論が文学という、明らかに思想と強い関連をもつが、同時に、一方では大衆普及現象を背景としながら、も、個人化もしやすい(つまり大衆vs.知識人という図式)、ジャンルを主たる考察の対象としていることも独特の語り口を与えているものではないだろうか?そこで問題となっているのは個人の転向であり、個人にとっての近代化なのである。それは、転向論の立て方を含めて、つまり記述する方、される方の共々に、私小説というような独自のジャンルを生んだ日本の文学界の特...質を示すもののようにおもえる。我々の「ナチス・ドイツの建築」という対象では、やはりアプローチの切り口は、類似点は少ないとしても、同じものではあり得ない。それはこれも単純化して言えば、一つには日本の近代化に介在する、伝統/近代という二項対立に日本(東洋) /西洋という異文化間の軋轢が重ねあわされているモメントが、当然ながらドイツの場合は、あったとしても、ナショナリティ(ゲルマン)とインターナショナリティ(ユダヤ)という全く意味の違うーそこでは知識人の微妙な転向への糸口など見つからないー形でしか存在していないということであり、もうひとつは文学と建築(及び都市計画)というジャンル(というかディシプリンというべきだろうが)の違いがやはり少なくはない。読まなければ、つまり関心をもって介在してくる読者がなければ、存在しないと同じである文学と違って、建築は日常的に市民の生活に直接的に介在してくる。それは文学が入り込んでくる生活感情とか信条といった抽象的なものではなく、生活様式という具体的かつそれ故に最も保守的になりがちな部分に関わるのである。更に、建築をつくり上げるのは文学の場合よりも遥かに多く社会的な生産体制であって、これも文学が社会的生産物だというようなレベルとは違って、具体的な生産者、例えば手工業者の死活問題につながっている。日本文学の転向論が読者大衆を視座に入れたとしても、それは殆どが知識人にとっての大衆という原イメージの如きものであって、大衆の側からの転向の問題へのアプローチは、読者的関心というそれ自体知識人的な平面ですくいとられたものを除けば、無いも同然だったのではないか?少なくともバウハウスに向けられた手工業者たちの敵意のようなものはそこには介在してこない。建築は、モダニストたちの好んだ表現では「時代精神」の、ナチス・イデオローグたちの好んだ表現では「世界観」の、各々現れとして考えられていたように、集団表現的なものであっただけでなく、現実の職能や社会階層の利害と価値観に直結するという点で、文学よりも遥かに多く社会的生産物だり、したがって政治的でもある。実際、ナチス・ドイツにおけるモダニズムへの反動は、バウハウスの初期から、ブルジョアジーのみならず、手工業者などのプチ・ブル保守階層が示していたようなものの継続でもあった。つまり突発的な反動というよりも一貫して存在していた政治、社会対立の最終的帰結という様相を色濃くもっていたが、同時に、それが単純な全面的反動であり懐旧ばかりだったわけでもないことは注目されるべきだろう。それはナチズム自体が抱える伝統回帰と近代志向、ひいてはそれなりの「革命性」のアマルガム的な性格とにつながっている問題でもある。

 

 

<参考2>

<転向論から、吉本の親鸞を読んでみると...
吉本は転向論の二項対立を超えていく>
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歎異抄」は近代の知識人を惹きつけたように、野間宏吉本隆明を惹きつけたのだろうか?
野間宏「わが塔はそこに立つ」の場合は、近代国家という壺の中にはめ込まれたものをただ「民衆」と呼んでいた。マルクス主義的な歴史観の内部に見出した「民衆」が文学の語りの内部に再発見した父的'親鸞'の固有名において重ねられていくのは、和解できない<過去>を大地に埋めていくようなカタルシスというほかないのである。...
それにたいして、「最後の親鸞」の吉本隆明は、自らの思想を自己移入的に「信」と「民衆」(野間)の内部に根拠づけることはしなかった。知識人の「俗」(「大衆」)に寄り添いながらも「俗」(「大衆」)でない、「信」と「不信」の間への脱出を考えていたからである。そうして外部の愚者と成った吉本の蠅は、<往相>と<還相>を行き来するだけである。

「吉本が親鸞についていう<衆生>は、服部や野間がその親鸞論でいう<民衆>の対極にあるというべきだろう」(子安)
「戦後思想としての吉本の発言をほかならぬ吉本のものとしたものが<大衆の原像>であったとすれば、吉本の親鸞を吉本の親鸞論にするものは<衆生の原像>であるだろう。'親鸞にできたのは、ただ還相に下降する眼をもって<衆生>のあいだに入り込んでゆくことであった'という言葉には、吉本にしかできない親鸞の読み方がある。(子安)
「<非知>とは親鸞において<非僧>;である。<非僧>とは寺院的知識の体系を負った僧における自己否定の運動である。知識人が己の知識の自己否定を続ける知識人の運動を<非知>と見れば、最後にうたる親鸞をこの<非知>の運動を貫き通したものとみなされなくもない。」(子安)

近代知識人が語る「歎異抄」の言説しかないのである。思想の問題とは、言説の交通の中に囚われた人間が、これに巻き込まれても永遠に巻き込まれないようにと、いかに批判的な外部性に存在するかにかかっている。その外部性は、自己自身の声からは見ることが不可能なほど外部にあるに相違ない。吉本のレトリックがいうようには、思想が自己称賛の思想詩と思想劇の声に依存するのは無理だ。思想を読むこととは、外部から自己自身を規定してくる読むことができないエクリチュール性を見ることであるー他者の眼差しのうちに、壺から脱出した蠅の眼差しのうちに(外から窓をたたいている)

方法としての「歎異抄」- 子安宣邦歎異抄の近代」の感想文 (本多敬) より

 

 

(以上、子安宣長邦氏の「論語塾」での講義を参考にした)