日本語

‪イタリアからバスで三時間後に、オーストリア入りしたとき、言葉はドイツ語、オーストリア語にかわった。数年前の旅では、チューリッヒから電車でジュネーブへ向かうときはドイツ語からフランス語にかわっていた。大陸のなかの旅は、アイルランド時代とイギリス時代の孤島の中の旅と異なるのはここである。こうした変化を知るのは耳においてである。ダブリンあるいはロンドンからバスか電車で数時間かけて移動しても、言葉は英語である。(英語に)ヴァリエーションはあるが、耳は英語から英語へ移る。同一性を知るのも耳である。これは、アジアの旅にもあてはまることか。台湾を除いてアジアを旅したことがないし、これから勉強することだから、知りもしないことを思いつき喋っているとおもわれても仕方ない。だが間違いを恐れずにいうと、昨日の津田論の講義のなかにおいて言及された点だが、大陸の中に位置していて中国から直接の影響を受ける朝鮮半島では中国語の音が直に思考をとらえるのではないかという。ところが海を隔てた日本列島の場合は、(この距離は偶然によるのであるが)、比べると、中国からの影響が間接的とかんがえられよう。そうして書記言語的に、被支配言語の思考を規定してくるのは支配言語の文字である。漢字書き下し文は中国語であるとはいえないけれど。再びヨーロッパについて考えるとどういうことがいえるのか。時間を隔てた大きな距離を以て、近代ヨーロッパ語の思考を規定しているのは古典ギリシャ語とラテン語の文字(と文法性)ではなかったかと。このように指摘されてきたことをあらためて発見するのである。言語の端がいかに形づくられているか(地続きか?海で隔てられているか?)によって、限定されたこの局所からはじめてグローバルな構造がみえてくる。果たしてそういえるだろうか‬?言えるとして、それはどんな意味をもつのだろうか?