歴史修正主義

ジジェクは、知識人の役割とは何かと問われたとき、かくも私たちが疎外されている原因を説明することだとロンドンの聴衆に話した。しかし日本知識人は疎外の理由を分析することをやめて、教えるようになった、世界史という物語を。そして、これに沿う形で、報じられているように、安倍政権は益々、歴史の言説に介入しようとしてくることだろう。‪知識人不在のところで、歴史を、文化の欲望に置き換えるのである。だけれど「それは歴史修正主義の問題ですな」といえばそれで何かを語ったつもりになっていないだろうか?わたし自身も、「歴史修正主義」と言えばそれで終わってしまってはいないだろうか?近代という歴史的性格をもった言説世界に私達は生まれてきた以上、「知」に依る私達の疎外の原因のひとつはここにある。ヘーゲル「世界史」の教説を批判したマルクスはこの認識をはじめて言った(私の理解が正しければ)。サイゴウもカツも、明治維新も、近代が自らを正当化するために都合よく作りあげた「世界史」の神話なのだから、できるだけこれを相対化できないだろうかとおもう。その方法のひとつとして、明治に先行する時代に立って学ぶこと。だが、思想史教室で繰り返し考えさせられる話なのあるが、吉田松蔭「テロリスト塾」のアベ日本文化遺産の過去に未来を託すぐらいのことを習うだけだったら、それは未来に現在しかないとする昭和十年代の最悪の反復‬ではないだろうか。が、思想史教室で繰り返し考えさせられる話であるのだけれど、吉田松蔭「テロリスト塾」のアベ日本文化遺産の過去に未来を託すぐらいのことを繰り返し習うだけだったら、それは未来に現在しかないとする昭和十年代の最悪の反復‬ではないだろうか。反時代的に、明治に先行する時代のエクリチュールで書くことになった、たとえば漱石のような作家の位置についてわたしは考えることになる。。「国内亡命」はエクリチュールの読み直しにすんでいるのだろうか?

「国内亡命」はエクリチュールの読み直しにすんでいるか。一考の価値あり?解釈で壊さぬ、解釈しない読み直しは可能か?知と弱さがいる。至高性と卑近性の間で、結びつかないもの同士を近づける流れ、セリー(系)を作り出すことのほかに何もできないし一人でもこれをやるだろう