ジョイス

‪『テーレマコス』を、現代世界はなお'武闘派'的に、古代の「敵」に奪われた土地を取り返せとする無意識を読みとるだろう。植民都市の経験を書いたジョイスの挿話「テーレマコス」もそういう方向を隠しもっていることは確かだ。そこからそれを否定する人類の立場からするヒューマニズム的解読を読むと、しかし現代の『ユリシーズ』はそれほど叙事詩的なのかという疑問もおきる。テクストは、powerlessの方向というか、寝取られ男のブルームが「敵」のオペラ歌手をつかまるのをやめてしまい音楽に心をうばわれてしまうような方向ももっているからだ。そういう隙間に「市民」は何とか生きていくことができると描かれていたかもしれない。おそらく『ユリシーズ』のなかでオペラ歌手は文化をあらわしている。文化とは人類の「公」にたいする共同体の「私」に成り立つのである。文化とは、なにか、近づくことはできるような実在の場所ではないし近づいているというのも幻想であるが、われわれの中にあったものを発見できる、<非在郷(ユートピア)>の形態として民族主義があるのではないだろうか。だからこそ文化は常に言説の方をみている。それにたいして、音楽は芸術である。芸術は、<混在なもの(エテロクリット)>としてあるとき、文化が住処とする<非在郷(ユートピア)>を批判していく。これについてフーコの言葉をひく。「<混在なもの(エテロクリット)>の次元で、きらめかせる混乱とでも言おうか、<混在なものエテロクリット>という語を使ったが、この場合、それを語源的にもっとも近い意味で理解しなければならない。つまり、そこで物は、じつに多様な座に「よこたえられ」「おかれ」「配置」されているので、それの物を収容しうるひとつの空間を見いだすことも、物それぞれのしたにある<共通>の空間を見いだすことも、ひとしく不可能だという意味である」‬