新しい普遍主義は可能か

漢字文化圏にあって、漢字文化圏に定位しているからこそ、ヨーロッパの古典語と近代語の文法の問題を考えるときに、ヨーロッパを考えている。正確にいえば、アジアからみた他者ヨーロッパを考えている。では、いつヨーロッパを感じるかといえば、それはホワイトハウスが「代わりに語ってくれるもの」を必要としているときかしら。ダブリンとロンドンから東京にきたとき、アメリカの属国になるものかという反撥に、ヨーロッパがあるとおもったものだ。現在は9年前にそう感じたことを忘れてしまっている。反撥と共にあるそのヨーロッパに先行するのは、最初に述べたアジアからみたヨーロッパであろうか。多分、何にしても文法的思考が先行する。さてアメリカの属国になるものかとする反撥が起きるのはアジアからなのだろうか。単純ではないとおもう。反撥が起きるのは、今迄述べてきたような、アジアを住処としているアジアのために語るヨーロッパから、ではないか。仮にそうと考えてみたらどういうことがいえるか?反撥といっても、(ヨーロッパはアメリカを必要とするように)、アジアに定位するアジアのために語るヨーロッパは決して反米的にはならない。これに対して、固有なものへの故郷愛の側から、何があってもホワイトハウス(=権力)にくっついていくとする全体化は、(アメリカのデモクラシーを愛さないという方向を以って)反米的になるようにみえる‬。(厄介なことに、左翼でもその根底に民族主義があると、これと同じ方向をもっているのではないか。) 最後に、アジアの側がアジアのために語るヨーロッパをもつときに、問題は、これから、ヨーロッパの側がヨーロッパのために語るアジアをもつかということ。正直これは難しい感じである。だけれどヨーロッパは新しい普遍主義として、他者アジアとの関係によって自己との関係を再構成しようとしている。二十一世紀は二十世紀と同じではないだろうとおもう。アジアもそういうアジアになっているかが問われるのだろう