近代の超克

「私は明治の末から昭和の敗戦に至る日本の足取りを考えると、どういうわけだかつい『ドン・キホーテ』の物語を連想する。」と尾崎行雄はいう。『ドン・キホーテ』とはなにか?「ドンキホーテはその平原を際限なく巡歴するのだが、決して相違性の明確な国境を越えることも、同一性の核心達することもない。彼は彼自身記号に似ている」(Foucault)。この一文を読んで、明治維新の「近代」はたしかにドンキホーテとしてとらえてみることもできるとおもった。明治維新の近代とは、前近代をもたないからいつまでも近代批判が成り立たないそういうような「近代」である。そうして西欧と亜細亜に揺れ動く表象<ドンキホーテ>は、なんとかしなければいけないと考えた左翼出身の思想家たちの言説であった「近代の超克」に極まったのか。だからこそ、必然として、この記号の体制は、(「記号を超えて」)、1970年代以降のポスト構造主義そして現在の反<明治維新王政復古150年>の近代批判の言説によって批判され得るのではないか。国家と民族がなかった<前近代>を思い出す批判からこそ、日本近代を投射しているようにみえるアジアの自民党的アジアに経済的モーメントはどんどん進むが政治的モーメントが一向に進展しないという問題が明らかになっていくのかもしれない。(江戸思想史に政治と宗教と道徳のモデルをみることができる。江戸時代に戻れというような単純なことを言っているのではない。江戸万歳はすでに日本会議の文化人たちに属しているようである。) ‬この問題を<前近代>からみるとして、どこからだれが誰とともに考えるのか?‬この問題を考えるとき、再び、日本近代を推進した世界史の言説に依拠することは倫理的にゆるされない。