白紙の本

日本人は『朱子語類』を中国研究者による訳文を読むが、江戸時代の書き下し文で読もうとはしないという。ところが講座に参加なさっている中国人留学生から感想を伺うと、書き下し文が面白いという。この感想が面白かった。このとき、日本近代というのは、近世が行った朱子の書き下し文を消した白紙の本で成り立っているようなものなのかと考えてみた。近代は本を書くゲームに喩えると、それは空隙のスペースがひとつある規則によって構造の多様性が成り立つゲームを発明したわけだけれど、しかし明治維新から150年、近代のゲームは失敗だったことはもうわかっている。漢字の前近代を消し去ってしまった白紙の本に書かれていく多様性は本当にそれほど多様なのかということを考えざるを得ない。子安氏によると、荻生徂徠以降、外国語として中国語をよむことが課題となり、近代において書き下し文で考えられた思想が忘却されていくことになったというのである。横井小楠をはじめ、明治維新を批判した朱子学的批判も含めて