美学


‪17世紀という時代は、美学が自分のことを喋り出す時代なんだね、17世紀はそういう場所をつくるというか。18世紀の問題は、絵と彫刻、音楽なんかー詩もーを語るようには言葉が語るようにできなくなってくる。私の理解では、この時代に、美学は書くことができない。この意味で美学はやっていけなくなるとき、それはモダンアートとしての理念をもつことが要請される。そして19世紀の美学は、近代が自らの独立性のあり方を問うような形で、時代に期待された自身のあり方と独立性を書くようになる。そうしてヨーロッパの普遍主義と等価となった美学は、だけれど、二度の世界大戦を経験した20世紀後半に再びやっていけなくなった。美学はモダニズムとの関係を批判的に問う視点をもたなければ、美学は美学として成り立つことが不可能である。そうだとすれば、たとえば近代主義の語彙である「時代」という物の見方ー単線的直進によるーに依存することができるはずがない。さて下に引用した文は、リゾームについて説明するところで書かれたよく知られている文なのだけれど、ここでは、「時代」が意味をもたないようなリゾームとしての<解体>美学をかんがえることができる。美学は、近代を脱構築的に批判するために、500年間にわたる芸術理論の歴史を、言説の空間として新しく配置する。ここから、多様性としての絶対自由の意味をどうしても問わざるを得なくなってきた。自由の思想は21世紀にはいって文化多元主義の方向から政治多元主義の方向へシフトしている。

「それはn次元から成る直線的多数多様体、主体も客体もなく、地盤面上に平らに拡げられ得、そこからはつねに〈一〉が引かれている(nマイナス1)多数多様体を形成する。」「地図は開かれたものであり、そのあらゆる次元において接続可能なもの、分解組み立て可能、裏返し可能なものであり、絶えず変更の受付可能なものである。それは引き裂かれ、裏返され得、あらゆる性質のモンタージュに適応し得、一個人、一グループ、一社会集団によって企てられ得る」(D&G)



時代に背を向けて自由に喋らせてくれ。問題は、「いかに」にある。否定によって、主体と客体、観念と実在の間の距離を保つカントを呼び出そうか?それで決められた方向づけを以って遡るのか。否、ただ視点が時々スローモーションで戻るだけだ。現在この時代が裏返し可能なものであることを肯定的に示すために。