安倍政権の「東京新聞記者の会見で閣議決定」は、言論・報道の自由、知る権利に対する爆撃に等しいのではないだろうか。「必ずしも簡潔といえない質問が少なからずある」(閣議決定)というが、それは質問者は国民が理解できるように質問しているからこそである。質問者を威圧して妨害する行為は、質問者と共にあるわれわれの身体を実際に傷つけているとわたしはおもうのだけれど
Every established order tends to make its own entirely arbitrary system seem entirely natural.
― Pierre Bourdieu
あるいは男性権力に依拠できないとした
ヴァージニア・ウルフの精神のジャーナリズムにおける継承かもしれないとおもっているのだけれどね
自ら放送原稿を書く女性アナウンサーの質問には知る権利以上の意義がある。質問は権力者を正す。
BBCの報道番組は冒頭に書く身振りと
ジェスチャーを示すことがある。権力者の男性たちは語る。書くことは語ることに先行している。英国の野蛮を啓蒙する使命をもつといわれる
BBCにソー
シアリスムが定位していると言わざるを得ない。
EU市民とマルチカルチャリズムは
帝国主義の英国を卒業するための理念である。
と自らを規定し始めたBrexitの最大の問題は、新しい普遍主義を再構成しようとはせずに、第二次世界大戦の「勝利」の果てに乞食になった自らの帝国主義に依存する過去を消す自己欺瞞にある。アジアにおけるEUモデルにかわる新しい普遍主義を模索せずに解釈改憲的に再び成立した国家神道に行く、言説 <国家神道としての日本人>もまた、アジアの二千万人の犠牲を消している
象徴性を超えた過剰な祈る行為にフォーカスした、「祈る天皇」の抵抗?を発明した左翼の言説が、日本会議の言説に包摂されてしまうことだって起きるかもしれないのです。講義で言及されたようにその内容はまだ固まっていないかもしれませんが、後者の天皇教的国家観は、米中から自立した普遍主義を模索する自由な言説空間の構造が依拠する空白(「天下の公」としてのX)を隙間なく埋め尽くすようなものであると考えておく必要があるとおもいます。差異は反復します。この時代になってやっと中江兆民が何に穴を開けようとしたのかが段々とわかってきたように思います
糸で貴族が「羊飼い」の貴族の人形を操っているようにみえます。人形劇の籠のなかから出ても別の籠の中にいるのだから、サロンの籠のなかでマッチョ主義の籠そのものを壊しましょう、と読めました(*≧∀≦*) フランス革命のマッチョ主義がこういう女性的なものを破壊しつくしたのは残念です。
「帰国子女」の特権は、「みんなと一緒に」と親や先生に叱られるとき、それは日本人のことなのかとストレートに反論できること。この後、「日本人という言い方をやめなさい」と叱られるのだけれど。「『みんな』は『日本人』とは言わないのですからね」と続く。問題は、『日本人』と言っている以上、ヨーロッパ中心主義のオイデプスに囚われている。『日本人』から自立するためには、それがいかに破綻しているかを考える。『日本人』の150年間がいかに失敗していたかを知るためには、150年前に確立した直線的な物の見方のなかでそれとは異なる500年ぐらいの幅のある視点を地下茎を通じてもつ必要があるとおもう。
安倍しんぞー「あなたさまにはノーベル賞、さてトランプ賞の栄光はだれに行くのでしょうか」
トランプ「ふ、困った奴だな。犬には骨で十分だ」
丸谷才一の文体論
「奇妙なことを言ふやうだが、第一に、「口語体」といふ名称に罪があつた。もし「現代文体」とでも命名されてゐたならば、事情はいささか違つてゐたかもしれぬとぼくは空想する。本来、「口語体」とは、「文語体」が文章語による文体といふ意味であるのに対して、口頭語による文体といふ気持で名づけられたものであつたらう。つまり、それはあくまでも丈体の一種であつたのだ。(「口語文」といふ名称の場合にも、事情はまつたく変らない。)だが、口語体の宣伝家たちは、それが文語体と異ることを力説するあまり、話し言葉をそのまま書き写せば文章になるといふふうに語つて、それが文体でなけれぱならぬといふ面を強調しなかつたらしい」
Daniele Albertazzi and Duncan McDonnell define populism as an ideology that "pits a virtuous and homogeneous people against a set of elites and dangerous 'others' who are together depicted as depriving (or attempting to deprive) the sovereign people of their rights, values, prosperity, identity, and voice"
無修正のBrexitは不可能です。EUとの間で調整されたBrexit案が議会で否決されたときは、イギリスはBrexitをやめたことにしなければいけなかったのですが...
イギリスは、ベルファスト合意(Belfast Agreementーイギリス、北アイルランドのベルファストにおいて、1998年にアイルランドの間で結ばれた和平合意ーで為した誓いをどうするつもりなのか? 現在Brexitの主導権は反イスラムのUkipから、大英帝国の夢から目覚めない保守党に移っている。「アメリカと組みんだ」(トランプは自分の国しか関心ないよ)。「インドがある」(また収奪できると思ってるの?)。「中国の時代だ」(...)。国家に戻るBrexitの一国家主義は、グローバル時代に新しい普遍主義の再構成を模索する方向にたいして背を向けている。勝利感に酔っているが、結局イギリスはなにもできずに、EUに戻るとみられている。戻るときの屈辱は想像に絶する...
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cependant que l’acrobate est en proie à l’équilibre le plus instable
nous faisons un voue et ce voue est étrangement double et nul.
nous souhaitons qu’il tombe et nous souhaitons qu’il tienne et ce voeu est nécessaire
綱渡り師がもっとも不安定な平衡状態に陥っている間、われわれは願いをかける。この望みは奇妙に二重であり、しかも無効である。われわれは彼が落ちてほしいと願い、われわれは彼が持ちこたえてほしいとも願う。しかもこれは欠かすことのできない願いだ。(Godard 4A)
安倍しんぞー「元号の出典は日本で書かれた書物がいい」
元号「首相、その理由は?そもそも国民にとって元号の意味は何ですか?理解されていないものはもう無意味ではないですか」
ーはやく質問にはいってくださーい!
しんぞー「あなたの質問に答える必要はありません」
『言葉と物』のフーコの文は「17世紀的」だといわれる。多分同じ意味で、「バロック的」ということも言われる。これはアカデミーの鍛えぬかれたヨーロッパ原理主義者でなければ完全に理解できないような言葉である。「17世紀的」とは何か?「バロック的」とは?その意味は独学者であるわたしのような者には一生かかってもちかづけない高みにある。そこで翻訳者の渡辺一民氏の言葉を思い返して、考えるヒントをさがしてみようか。彼は他の学者と違う読み方をするという。巻頭のベラスケスの絵を常に思い浮かべながら読むのである。またこういうことも言っていた。フーコのどの文も曖昧であるけれど、それらによって構成されている本に明確な全体性が見事に成り立っているんだよねと驚嘆していた。そのときは「バロック」という言葉を言っていなかったが、成る程、絵画史でいわれるバロック的なもの特徴は、部分が曖昧であるが、全体として明確なイメージをもっている。バロックの代表選手であるカラバッチョの絵を例にとると、部分の不定形なイメージは、全体のなかではじめて意味が明らかになる。(「帯」が描かれていたことがわかる。)ダブリンで8年間見つづけて意味が分からなかったカラバッチョの作品(「キリストの逮捕」)も、発想の大転換が必要だったのだな。部分であるわれわれのもっとも近くにあるのは全体である。そんな全体は神ぐらいしかいないということをあの絵はあらわしているのかもしれない。と、最初の問題関心に戻る。『言葉と物』に、部分における卑近なものに至上なものがあるというアイロニーの精神を読めるか?それを「17世紀的」「バロック的」とよんでいいのかもわからない。「17世紀的」「バロック的」というのでなければ、映画的というかな、遠くからやってくる、解釈し尽くせない映像の反復にとらわれる幸福感のこと。本当にそうなのかとフーコを読んでみるかという気持ちになっている(どうせ挫折するからやめとけ)