ジョイス

ジョイス文学は消滅したゲール語について考える。ゲール語は絶滅させられたのか?否、民の英語を使う生活上の要求の中で捨てられたのだ。ジョイス文学は、絶滅させられたと想定したうえで構築されるアイデンティティの国民文学とは全然違う。新しい文学はあらわれるときは死に切った過去を発明する所に「生まれ変わる」ようにみえる。しかし単純ではない。問題は、アジアの形而上学にとって死者はなくならないように、“自分で決めた亡命”を行ったジョイスが同時に亡命させた「アイルランド」の死んだ言語はなくならないからである。『フィネガンズウエイク』のどの文も異界をもっている(開かれた海に合流する「河」として表象される)。現存する50ヶ国語の言語を利用して作られる見えるものと、消滅した見えないないものとが互いに近くあることをジョイスの言語(「宇宙の劇場)」は思わせる。死者が卑近な生者に生まれ変わるとされる世界の原神話。しかし世界の原神話はそれほど迷路ではないように思う。ジョイス文学が繰り返しとらわれているようにみえる、同じ世界に生者(目にみえるもの)と死者(目に見えないもの)が共存していると考えてみたら、言語的存在である人間の意味に関してどんなことが言えるだろうか。たとえば生者と死者が共存する世界で考えられてくる「連続性」は、外部の思考において成り立つものである。それは生者は自分たちしかいないと彼らの奢る世界で考えられているような「連続性」とは違うのだろうな。(実数と虚数で構成される空間での微分は実数空間の微分と随分と違う‬よねと書いては専門家に怒られるだろうけれど) 生者と死者の共存する世界は、何と無意味な生者の驕った世界の連続性に包摂されていることか。国家神道から、戦争で殺された300万人あるいは2000万人を切り離そうとしているではないか!