ジョイス『ユリシーズ』

‪「常に演劇は,それが取り込む諸芸術を,特別なというか文学的な観点から,変質させる.音楽は演劇に力を貸して深みと影を失わないことはないし,歌も同様に,孤独な雷という趣きを失う,そして,本来的に言えば,〈バレエ〉に対しては〈舞踏〉の名を認めないことも可能だ」(マラルメ)。

1、演劇は革命も変質させる。革命のときにきまって現れる幽霊というのは、マルクスが分析したように、半ば死んだ半ば生きた過去に絡みとられたような、奇妙な衣装をしている。観客はその衣装から古代を思い出す。しかし思い出すたびに、歴史はそこから目覚めたいとする悪夢となる。革命は演劇にとどまり続けるだけだ。革命が革命としてあるためには、死に切った絶対の過去からの贈与を受け取ることが必要なのだ。連続性を断つ、そうしてこそふたたび新しくはじまる。フランス革命は半ば死んだ半ば生きた過去を忘却しなければならなかった。そしてそれは忘却することに成功したのだろう。

2、ゲール文芸復興運動のほうは、ジョイスからみると、革命として成り立っていなかった。"自己で決めた亡命"先のイタリアのトリエステで書く「ユリシーズ」は、この外部から、(亡命してきた)アイルランドに時間を与えるという課題を担っていた。その時間とは、絶対の過去からの贈与である。<ネットワーク>ブルーム-宇宙は、現象学存在論の"世界-内-存在"ではとらえきれない大きさをもっている。問題となってくるのは、必然としての不一致(mismach)の働きである。


3、「アイオロス」挿話でブルームが「hello?hello..?」と電話で呼びかける(電話が遠くて相手に繋がらない。)ここ数百頁後に、偶然に、「ペネロープ」挿話でモリーが「yes、yes、yes」と言う。先行する「イタケ」挿話では、記憶が定位する書かれた言葉に終止符が打たれている。恰もモリーは過去を忘却したときに、それによって、原初的出発に帰ることができたと読むことができる。

この宇宙の全体は、外部である、(ブルームという)愛されるものの中では、客体として与えられた 。それと同時に、内部である、(モリーという)愛するものの中では、主体として与えられる。「ユリシーズ」の最後の文字"S"が、冒頭の最初の行の文字"S"へ繋がる。ふたたび新しくはじまることを告げる徴である。