映像と言葉

Facebookは映像を必要としている。わたしは書くためには映像を必要としている。これとは反対に、ハリウッドのシナリオと同じ感じで、国家における映像との関係は、国家は映像を集めるために言葉を必要としているようにみえる。コインに刻まれる皇帝の顔、紙幣の王様の顔、これらのリアルな映像はそれ自身で完結しているのではなく、常に言葉との結びつきから成り立つ。と、考えてみると、どんな言葉が書かれるのか?映像を集めるためには、国家が住処としていたという古代の文学に現れた始原的起源における平等のフィクションを書いたー近代がこしらえた始原的起源なのだけれど。言文一致と現代語訳のおかげによって古代文学を読めるようにしてくれた<明治維新150年>という国民統合の神話のフィクションが元勲の顔のリアルに先行したのである。問題は、近世の漢字エクリチュールが見えなくなった結果、近代がいかに近世を完成させることに失敗したかを批判することができなくなったことにあるー夏目漱石とかを除いて‬。‪現在を批判的に相対化するための別の近代という視点ができないままやってきた‬