MEMO

子安先生によると、伊藤仁斎は天地の生成を善としてとらえていく。善は生まれつきの善である。そうして覚醒について考える仁斎は朱子と共にあるが、彼は朱子学形而上学的な理気論的概念と体用論的言語から離れていく。至上なものは、究極的なものにではなく卑近なものにある、という。仁斎の前にこのように考えた人はいなかった。京都堀川の裏側に住んでいた仁斎は夕方の景色を読んでいる。仁斎の注釈は難しいのだけれど、漢詩ならば、仁斎の卑近なものをみる見方がわかってくるような気がするのは、それが景色を読んでいることによるのだろう。仁斎は言語のなかのx(映像)を開いている。これは私の憶測だが、朱子学の天地の生成を考えていた知識人たちは景色によって語られていることを理解できなくなったのではないだろうか。(下のページは宇野直人『漢詩を読む』NHK ラジオテキストから引用した)



「国民の心」といわれるものの見方とは、安倍晋三とおなじものの見方のこと。これを踏みつけてこない芸術は意味がある芸術といえるだろうか?


隣国を信頼して戦争しないという誓いはどうしたのですか?誓いを実現するためには全力で外交しなければいけないでしょう。ホホー、中々二人以上にならんのですけど、「ふくろう猫共和国」から、国交断絶のノリでワイワイいっているようならば「ホワイト日本」を除外することにきめましたニャ。なにか?


党派性なき語りとはなにか?量が増えていくときに、単純に増えていけばいいのか、質的転換をする必要がないかという問いが出されたが、小田実は必要ないと語ったという


Faire du cinéma, c’est y voir clair dans la caverne de Platon grâce à la lumière de Cézanne.

ー Godard


少女像といえば、二、三十分かんがえても芝居の感想の言葉が中々でてこなかったときに、静かに隣に座っていた人にちょっと意見をきいてみようと話かけたら、少女像だった


近代は権力を構成する中心に表象があり、権力者は表象を支配できぬことを怖れる。言説を受け入れると、脱構築するまで、われわれは気付いたときにはもう物を言えなくなっている


権力者が無力な芸術作品を国民みんなの敵にしなければならないほど怖がっているというのもなんとも不思議な話ではないか。ヒトラーは若いとき売れない画家だったが、最近は中々の水準で絵を描いていたという評価がある。ナチスは政治の美学化  であるといわれるように彼らなりに芸術を愛していた。その中にあって、表現主義作品はナチス言語化できない傷口が膿んだこだわりを打ちのめすものであったようだ。それは統合しなければならない全体主義からは退廃として名指された。退廃はいつ始まったのか?そう昔ではないだろう。退廃が始まった年号と日にちが分かる筈だ。それは主体が二重化されると共に空洞化する(主体が鍵のかけられた表象の部屋から脱出する)近代の始まりに遡ると思うが、謎は深まるばかりだ。近代は権力を構成する中心に表象があり、権力者は表象をコントロールできぬことを怖れる。「日本人の国民の心」というずっと言われてきた言説を恰も初めて言われたように受け入れるとき、われわれは気付いたときにはもう物を言えなくなっているというか


近代は権力を構成する中心に表象があり、権力者は表象を支配できぬことをつねに怖れる。言説を受け入れると、この外部へ脱出するまで、われわれは気付いたときにはもう物を言えなくなっている。精神分析学はオイディプス三角形をもつ言説である。また同様に、文献学のオリエンタル学に拠らない、ヨーロッパが非ヨーロッパを描く人類学も構造主義をもつ言説と考えられる。



反日」という言説は言語化できぬ固有性へのこだわりでもなく、外部の介入によって只そこにある事態を不可避的に他者としてあると構成する物の見方に対抗する似非超越化である



廣松渉のあまり理解できない’良い’読者ではなかったのは、『資本論』の深遠な読みに必要な哲学だと言われていたのでかえって読めなくなっていたということもある。魅力とされた漢文的造語も苦手だった。みんなが分かっている「精神」という語もわからないままだった。労働法のゼミのなかで読んだが、わたしのような凡庸な読み手は時間がかかる。けれども現在は朱子語類』鬼神論が記す「身体」について考えたし、何とかこの一文ぐらいは理解できる(と思っている。)


われわれは日常生活において、四囲の存在とわれわれ自身の身体とを反省以前的に区別しており、この身体的自己にはいわゆる精神的自我が宿っているものと即自的に了解している。「外物ー身体ー精神」という三分的区別の構図はー三分肢それぞれの内実に関する了解の時代的差異を問わずに形式的にいえばー構図そのものとしては、近代以前における万有霊魂的(アニミズム)な世界観においても背景となっており、遡ってみれば、おそらくや太古以来、“世界像”分節の基軸をなしてきたものと思われる。この構図を端的に放擲してしまうことは、日常的・実用的な意識生活にとってはもとより不可能であろう。しかしそこには或る重大な陥穽がひそんでおり、外物と身体、身体と精神(意識)とを存在的に截斷してしまうところから一連の悖理が生じる。それゆえ、われわれとしては、まずはこの間の事情を対自的にとらえかえしつつ、”既成観念の批判”を試みておかねばならない。」ー廣松渉「共同主観性の存在論的基礎」第1節 身体的自我と他在性の次元。‬


‪この後、「問題が生じるのは、個体としての身体的自我を以って能知能動的な自立的主体とみなし、このものが所知所動としての客体的外界に対して能知的主体として関わるというそのかぎりでは、“身体的自我”が実体的に自己完結的であるとみなすこと、要言すれば、「能知的主体」と「所知的客体」とを存在的に截斷することがらであ。」と言っている。これは近代知の言説に対する批判を為す問題提起であろう。‬

‪「虚心に顧みるとき、身体的自我なるものの“境界”はきわめて曖昧であるきとに気がつく。」という。‬

廣松は映画を見たことがあるのかと思っていたから、「映画に熱中していて我にかえった場面を想像されたい。」と言っている文を大変興味深く読んでいる。ここで映画を例にして、「「図」は一般に、“錯分子的に”重層的な分節状相を呈するし、時としては、地と図とが明晰に反転することなく、準地的=準図的と呼ぶべき相で現前する」と分析しているのはわたしにとっては大きな問題提起である。‬



表現の自由を芸術に与えるならば、芸術が何かを定義しないことが大切である。嘗て抽象的幾何学で構成された善なるものが芸術とする見方があったが、そうして一度確立した芸術の見方のなかでそれとは異なる芸術の見方が生まれるのが困難となってしまう。芸術の性質が「日本人の国民の心」と定義づけられたら排除しかなくなるだろう。作品はただ命名行為によって芸術と名を与えられば芸術であると思う。展示する人たち(必ずしも専門家とは限らない)が芸術と名づければ芸術であるとおもう。理念的には、これは芸術であると名指すのは文学テクストではあるまいかと思っているのだけれど、そういう本は何処に存在しているのか?


‪芸術は定義できるか?意外に思われるが、ポストモダン思想のジル・ドゥルーズは定義できるという。『アンチ・オイディプス』において、『言葉と物」のように、アイデンティティの近代は批判される。多元主義としての存在の概念が再構成される。あらためてそこから、主体の概念なくしてファシズムとたたかえるのかと問われるように、ファシズムにたいして芸術は定義できるのである‬とする。



中国哲学の再構成はインド哲学との出会いによって起きたと考えられている。東アジアに確立した朱子学の哲学は、17世紀徳川日本の時代に脱構築されていった意味はなにか?これは京都から起きたアジアにおける知識革命を為すものであった。20世紀ポストモダン孔子という読みは翻訳を通じて、現在中国の関心を呼んでいる。21世紀の東京で行われた、17世紀の朱子語類鬼神論の読みは鬼神論を超える。鬼神論のディスクールはアジアからヘーゲルとフーコが発見されていくかのようである。‪子安宣邦氏のもとで朱子を読んできたが、これと平行して、市民大学講座で、アジアにおけるグローバルデモクラシーの展望がないまま国家祭祀が事実上復活してしまったという危機感をもって明治維新の近代を相対化する批判的視点を学んでいる。