講座「明治維新の近代」13 について

<ラジカルなモダニズム> は何か?トータルに、全的否定的に、思想性なき広がっていく豊穣さに宿るのか?


バベルの塔’は古代帝国の高度な建築術と都市の多言語的多様性の勝利であった。それを憎んだ共同体ナショナリズムが「悪名高い」’塔’崩壊の伝説を物語ったと考えられるようになったのは、ポストモダンの時代においてからである。さて中華文明の書記言語がアジアにおける’バベルの塔’だとあえてフーコ的に問題提起してみたらどんなことが言えるだろうか?このことを、昨日の子安先生の講義(「明治維新の近代・13、シナの消去としての日本近代 (その一))で考えてみることになった。「書記言語として共通な日本語をもつの1500年代、それがはっきりしてくるのは江戸時代」(子安氏)という。これに対して、近代の言葉(ラング)を推進する体制から、書記言語としてのシナの消去をもとめる主張がなされる。現実も、音声化をよしとするこの方向で進んでいる。これが’バベルの塔’崩壊を意味する体制である。しかし津田左右吉においては、漢字的なものとしてのシナに対する批判は、明治維新の「漢的な」構成(例. 『教育勅語』)に対する批判性をもったことに注意しなければならないという。なるほど、この点において津田の明治維新の近代を批判する<ラジカルなモダニズム> は、なにか?<ラジカルなモダニズム> は何か?思想性なき広がっていく豊穣さ?それは、ほかならない、「希少性」(子安氏)である。明治維新150年の現在を考えてみよう。「現代日本語の最大の課題は漢字の廃止である」と音声化を称える言説は、言葉(ラング)の体制による後戻りできない’バベルの塔’の崩壊の必要を訴えるだけだ。ナショナリズムナショナリズムとが衝突しあって、お互いになにを喋っているのかさっぱりわからず、憎しみの互酬性に翻弄されて、そのことが帝国の支配を許すかもしれないという近代の限界をみようとはしない。だけれど現在考えなければならないのは、言説から言語(ランガージュ)を奪回すること、明治維新の近代から攻撃された書記言語を取り返して自立的な思考の力を回復すること。これらのことがグローバルデモクラシーにおける理念としての’バベルの塔’を再構成することの意味を考える思想史の充実にかかわるとおもわれるのである。


(追加)

‪フーコ的に言うと、「バベルの塔」の崩壊(原初的な第一次的パロールの喪失)がはじまるのは17世紀からである。「表象」の時代がくると、原初的な書記言語の前に話されていた言葉が実在したと近代主義者の間から言われるようになる。これは原初的な書記言語の「透明化」である(「『古事記』は読まれ続けてきた」)。そうして超越的なものが声の中から構成されるとき、問題は、帝国主義の時代の政治支配者が、死者の世界を主宰する超越的なものに権力を集中することで、昭和十年代天皇ファシズムに帰結するような無責任体制を推進してしまうことにあった。しかし書記言語の消去を徹底を言うことによって、天皇ファシズムの否定を根本的に考えさせる批判性をもった「ラディカルなモダニズム」も存在した。われわれは「表象」の時代ではなく、「言説」の時代に生きていることをおもう