ポスト構造主義と映画における思考の形式

‪ドイツ語のGeistを漢文エクリチュールの「精神」と読んでも意味がわかる。これは解釈の厚さによってではないだろうか。ヘーゲルの「精神」もマルクスの「労働」も解釈の厚さーものーから成立したと考えてみたらどういうことが言えるだろうか。構造主義の科学に還元する否定フェチシズムはカントからきているが、「精神」も「労働」もそれによって読もうとしたらなんのことかさっぱりわからなくなる。そこに厚さがないからである。ポスト構造主義構造主義を乗り越えようとしたときは、言語を徹底的に抽象化していく可能性をもつノマド的数学に依拠しても、再び厚さを復活させたのではなかった。ポストモダンは表面の思考にそって考える。厚さは近代であり、表層は脱近代と考える。表層における脱構築的思考によって、都市における建築の風景が変わった。また表層的平面にストレートに結びつくのが映画におけるいわばスクリーンの思考である。映画は言説から言葉をスクリーンのもとに奪回する。曖昧な本質をかんがえる。そういう映画は旅先で書く絵葉書でもいい。それならば「映画」とは何か?映画は「映画」と呼ばれるまえは何だったのか?ギリシャ悲劇がヒントになったゴダールの映画『カルメンという名の女』のなかに、「カルメン」という名の前は何なのという台詞がある。同じくらい重要な問題がある。それは「映画」と呼ばれるまえは一体何だったのか?それは見ることの自明性を疑う投射の原理である。映画の起源は何かという問いにたいしては、映画は存在することは疑わない。われ見る、われ存在する。ここに、情報とはいえないし物資ともいえないものー曖昧な本質ーが接続されてきたと再び構成してみるのである。諸映画の関係をバベルの塔の災厄以降の諸言語(ラング)の破片のように考えてみたうえで、唯一のかつ複数の映画を確立する「思考の形式」(ゴダール)を可能とさせてくれるものを、「映画史」は構想するといわれる。

だが問題は、救済できなかった他者殺戮のアウシュビッツ収容所を撮影しなかった「映画史」の決定的な失敗である。そんな他者なき一かつ多は包摂でしかない。置き換え不可能なものはないという「曖昧な本質」という美学的な多元主義の要請によって、アウシュビッツを編集された他の映像のもって置き換えることが倫理的に許されるものなのだろうか?