フーコ『言葉と物』

フーコ『言葉と物』の序文と第十章が重要な理由は何か?ラテン語の「世界という散文」よ、さようなら、と、西欧はそれ自身からの異別化を行った。近代はそれによってヨーロッパ中心主義へ行く。形式化された普遍言語を切り開く。この知は地球の隅々までを支配した。日本の近代化は他の地域の近代化と比べてこの近代によって漢文の前近代をゼロにするほどの極端へ行く。一見最高の知をもつことができたが、問題は、それと同時に、帝国主義をもたらした。このヨーロッパ中心主義の克服は、構造主義と音声化の方向によって可能なのか?後者はたんに前者を対抗しただけではなかったか?第十章はこのことを問うた。人文科学を再構成すること。そのためには、マラルメの別の読み方が要請される。構造主義の言説から言葉を奪回する意味の大きな役割を考えてみよう。そうして『言葉と物』の第二章の重要性もみえてきた。「世界という散文」を「国語という思想」に置き換えていく永久革命の様相を示す近代「知」の表象性を批判するフーコの議論はこの章からここからはじまるといえないことはない。『言葉と物』は、復古主義でも伝統主義でもない日本近代のナショナリズムの正体を明らかにできる。