劇評; 東京演劇アンサンブル公演『揺れる』


揺れる』(マリア・ミリサヴリエヴィッチ作)は、ベルリンの壁の崩壊後の現代をえがいている戯曲である。<わたしたち。誰でも。何人でも>というト書きは思考を揺さぶる事件だ。これは、戯曲のコスモス(ロゴス)が、反コスモス(わたしたち。誰でも。何人でも)を利用して自らをグローバルに再構成しようとしているようだ。『揺れる』が呈示するカオスはなにか?‪『揺れる』は、なんでもかんでもカネがモノをいう社会に対するネガテイヴな明確なイメージをもっている。回路づけられた欲望の知覚し得ぬ極限に、隅々まで情報の客体となった身体の深い孤立がもたらす痛さこそがカオスである。これにたいして、マリア・ミリサヴリエヴィッチと東京演劇アンサンブルの舞台はウイリアム・ブレイクの想像力を導入する。舞台をみる。舞台に抱擁されているのは想像力。演出家の公家義徳氏の舞台は想像力の舞台からラディカルに問う。演劇は世界とともに、奪回した視線の肉体を以って、外の思考の領域へと逃げることが可能かと。引きこもりの箱たち?私と私のなかの汝の下に、微かに呟き続ける即自的に影のように私につきまとう身体が呟き続ける。そうして世界は根拠が与えられ、世界は突然、希望の無限の広がりを自分のものにしていくプロセスを想像できた。2020年という年に、『揺れる』の舞台をみることの意味は何か。全世界が音楽、演劇、映画、美術館をたずねる能力を失った現在、それらの真の価値を真剣に考えはじめることになった。演劇とはなにか?演劇とは、泣くこと、思いだすこと、笑うこと、考えること、学ぶこと、受け入れること、そして揺れるー揺らされるのなかで想像すること


f:id:owlcato:20200329010055j:plain