「弁名」ノート No. 16 ( 私の文学的フットノート)
「弁名」ノート No. 16 ( 私の文学的フットノート)
子安氏の訳「およそ先王の道は、迂遠でとらえ難いものであり、普通人に知ることはできないものである。だから孔子も、「民には由らしむべきであり、知らしむべきではない」(『論語』泰伯)といい、また「この詩を作ったものは、道を知る人だ」(『孟子』里仁)といったのも、道が知り難いものであるからである。孔子がまた、「吾が道は一を以てこれを貫く」(『論語』里仁)といながら、何をもって貫くかを言わないのは、それが言葉をもって説きえないし、説くべきはないからである。」
• デイスクロージャー(情報公開)がもとめられている現在、17世紀に書き記されたとはいえ、徂徠の「道は言うべからず」の一文を読むと、当惑をおぼえるが、徂徠の言葉を読んでいくことで彼の考え方を追うしかない。さて原点にかえると、「聖人の道」「先王の道」で指示されているのは、ほかならない、内部化を拒む外部的視点である。「徂徠が読み、継承するのは、孔子の政治的な言語である」(子安) 。ここでの私の理解では、『弁名』が指示してくるのは、われわれがかく由ることを外部からする必然性というようなものだ。これに対して、「仁斎がもっぱら読むのは孔子の道徳的言語である」。ここで仁斎を引くのは、徂徠は仁斎から大きな影響を受けているからである。私はこれを、知識の共有が前提とされているような「仁斎論語とわれわれ」として理解される言語であると考えている。ふたたび子安氏の評釈によると、「対他的・対人的関係を基礎に、その充実によって人間世界の完成を考える立場を私は『道徳的』ととらえている。」。他方で、「先王の道が民衆との関係で説かれるとき、その道をめぐる政治性が顕わになる。あるいはそのとき道は政治的な言語をもって語られるということである。ここで『政治的』ということを、社会的総体としての人間の方向付けにかかわる立場として私は理解する。社会的総体としての人間への視点とは伝統的には君主・為政者がもってきたものであり、彼らと同一化しながら儒家もまたその視点をもつのである」。こうして、徂徠は、仁斎と比べると、「聖人とわれわれ」という感じがする。だけれど、ここでは、仁斎と徂徠の違いよりも、あえてその共通点をみなければいけないのかもしれない。その共通点とは、今日の言葉でいうならば、できるだけナショナルなものに依存しなくてもいいように平和共存をのぞむ「アジアとわれわれ」というふうに再構成されるような、どの民衆も真に依拠できる「道」の方向性を示すことではなかっただろうか。何というか、言語のなかの過去の姿が問題となっているのであるが、依拠すべき信を理の内部に置いてはならないように、依拠すべき過去を民に伝える言葉の中に位置づけることはできない。そうして過去は絶対の過去になっていくというか、過去を理の囚われた言葉の内部から外へ置くこと、やや過剰な言い方かもしれないが、そこに平和をのぞむ民が安心を見いだすような過去という沈黙する映像、コミニュケーションできるが遥かに遠く語られ得ない目に見えないもの。最後に、少しでも裏づけになるかもしれないが、徂徠が引いた詩について書き加えておこう。孔子の曰く、「この詩を為(つく)るものは、それ道を知るか」(「この詩を作ったものは、道を知る人だ」)。ここで言及されている詩は、「詩に曰く、天蒸民を生ず。物有れば則あり。民の夷(つね)にしたがうや、この懿徳(いとく)を好む」。こう解釈される。「事物の存在する処、そこには必ず一定の法則がある。この法則に従ってこそ世界も平和であるが、民衆は本来それに従うことを好むものだ」(金谷治『孟子』中国古典集)
「教育勅語」の稲田防衛大臣が語らないこと
隠しているんだろうと思いますよ、他に色々と。(近代化を担った下級武士のエートスをとらえた儒教的背景をもった)後期水戸学の言説とか、(維新の後に展開された)国民道徳論とか、(あの妄語は国民道徳論の出来そこないの一部ですね)、まだ他に、靖国史観が物語る三種の神器とかトンデモ話を過剰にかかえている雰囲気ですね。しかしやはり稲田のあの頭のなかの「教育勅語」はヨーロッパの近代と結びついているでしょう。そして、なんといっても、バブル期に培われた差別感からの圧倒的影響はないでしょうか、少数民族の存在を否定し、あたかも「一つの日本」「一つの日本語」があたりまえとする中曽根内閣の時代のことです。そうしたことを踏まえたうえで、とくに国民道徳論について改めて考える必要があると思うのですね。少し前置きなのですけれど、丸山が指摘したという、(商人階級に支えられた)徳川儒教の弱点という話に即していえば、仏教がもつ本質的平等観がないのですね、農民出身の商人であった石田梅岩はありましたが、だけれど、仏教も石田の心学も、いかに平等を実現する方法を考えることがなかった、そこに限界があったと指摘する見方があります。明治を待たないと、平等を実現する制度論が出てきません。しかし福沢諭吉のように、バッサリと伝統を形作っていた近世思想を切り捨ててしまうとき、何が起きて来きたかをみますと、自由民権運動の盛り上がりが引いたあと、対抗的に、「伝統」を取り返せみたいな似非国民道徳をいう言説家たちがあらわれるのですね。西欧の市民道徳は国を亡すという感じだったでしょうか。しかし西欧列強から植民地化されることを避けるために行われた天皇のもとに国家権力の集中を正当化するこの国民道徳論も、日清・日露戦争のあとに耳触りになっていったと想像するのですがね、しかしながら大正デモクラシーのとき日清日露戦争の意味が反省されることなく、したがって天皇の権力集中を続ける必要がないという「他の道」が検討されることもないままに、歴史修正主義者の安倍が自分のアイデンティティを置いているとみられる満州事変へズルズル行くという...
誰が教育勅語を作ったのかを戦争責任の問題として問うことに意味はある。だが教育勅語の核についての解釈に絡み取られても、くだらない国体概念ー日本の自己同一性ーしか出て来ない