漢語の近代

‪慶応三年のヘボン和英語林集成」初版から二十年間で約15000語増加した。明治維新以降あらゆる言葉が増加したのである。そしてその大部分は(国産の)漢語であったという。これはなにをもたらし、何を意味するのだろうか?物の見方がそうしてネイティブ化していくと、その中あって別の物の見方をするのが大変難しくなるということだ。つまり近世から近代を読むことができなくなるし、漢字文化圏のアジアから日本の近代を相対化し解体していくことができなくなる‬ということである。

梟猫曰く

‪梟猫曰く、「遠くまで行って指示すべきものを探し続けるより、卑近のものがもつ意味を考える。読まれてきたとされるものが由る起源を遡らず、事件として誰が初めて言ったかを行いとして言う。関連性のないものから切り離してはいけないし、他のものはどこにも属する、存在する」

共謀罪

「テロ」といわれる状態がどんな性質を具えるのか?そもそも字からして怪しいし、送り主(大臣)もさっぱり理解できないという、「共謀罪」と名指された中身不明の小包みを無理やり送りつけてこようとする、対話なき数の力ほど、「テロ」のイメージに沿う恐怖はないのだけれど

「皆様の安心の為には、仕方ありません、皆様の権利の少しばかりを国に譲って戴くことになりました」 「御断りします。自由に喋る権利とその為に不可欠なプライバシー権を、安倍政権のもとで恐怖を作り出そうとしているこの国から奪われたり盗まれないことこそが究極の安心です」

映画史

投影の思考の形式に依りながら投影をわれに成すことによって、métamorphoseを以てする思考の形式とわれとは合一する。思考スクリーンのもとに、思考空間の直線が送られる。問題は、このとき、この二つの間にあって平行になっている第三の思考空間が映らない影をもつこと。いかに、映画史はこの亡霊を見るのか。たとえば、アメリカはアングルが為すクローズアップを発明し、ソビエトは対抗的にモンタージュを発明したといわれるが、『映画史』のゴダールは、クローズアップの映画に見えてもグリフィスこそモンタージュを発明していたのであり、またモンタージュの映画にみえてもエイゼンシュタインはカメラをどこに置くかという視点を問題にしたアングルの映画を作ったと指摘する‬。

文化多元主義

多元主義のヨーロッパに依りながら文化多元主義をわれに成すことによって、ヒューマニズムを以てするヨーロッパとわれとは合一する。ヨーロッパも同じヨーロッパであり得ない。この多-普遍主義を決定的に壊したのが、アメリカ主導のイラク戦争であった。ブレアの英国も戦争協力した、ブッシュの米国による戦争で、イスラム排除によって成り立った近代が反復してしまった感がある。2009年、イギリス滞在の最後の年、ヨーロッパに生きる、アラブとの繋がりが切れたといわれる二千万人のイスラム系の人びとは、大きすぎて中身がないように感じられてきた文化多元主義の理想よりも、差別をやめるようにと人権の尊重を切実に訴えるようになっていた‬。 ‪社会民主主義の文化多元主義は、グローバル資本主義と戦争によって、破綻してしまったか?新しい普遍主義の形を探して白紙の本に21世紀に起きてきた民主主義の経験について一行一行書いているヨーロッパを観察した眼を以て、アジアの多元主義の方向を考える。 ‪ヨーロッパの話をさせていただくと、イギリスの新右翼系思想家たちは、サッチャー新自由主義新保守主義を批判したとき、グローバル資本主義というのはボルシェヴィキの社会エンジアリングに行き着いた啓蒙主義的近代だからダメだというのですね。いわばグローバル資本主義の理性に対する不信感を口にするのです。理性のことに言及するならば、これに対しては、そもそも、理性というのは孤立しているのではなく他を必要とする能力で、それは、感覚と共に、または自由意志と感情と共に、協働してはじめて働く、というふうにカントが言った意味について考える必要がありそうです。グローバル資本主義の理性といわれるものも、何かの理性である限り、共に働く何かを必要とするとおもいます。資本主義をつくるのは資本主義。ここから、多元主義をつくるのはグローバル・デモクラシーだろうとかんがえています。しかし求められているその新しい普遍主義の形が、ナショナリズムによって非常に悪い形でさがさなければいけないという感じですね‬

‪ ‪書く本が画布に化けているのか、或いは、描く画布が本に化けようとしているのか。誰一人入ってこれない鏡の、本と画布しかないこの部屋で、始まったばかりにせよ終えたにせよ、思想は思想自身であるためには、依拠しているその外部を消し去ることが倫理的にどうしてもできないの