『芦部憲法』とは何だったのか?

『芦部憲法』とは何だったのか?法学部落ちこぼれ代表選手みたいなこのわたしがこれに答えを与えることなどはけしからん話ですが、この本の功績は、解釈の近代を展開させたアメリカ憲法のあり方を紹介しこれに精緻な説明を与えたことでしょうか。読んでいれば、今日におけるトランプと連邦裁判所のバトルを十倍の面白さで観戦できるというものです。司法権は自己の限界を定める自己定義を行うことによって、ここから、民主主義のために相当なことができるというのですね。政治的ともいわれる、司法権の役割を導き出すために、司法権が自己定義しようとした自らの限界の意味を『芦部憲法』は教えてくれました。だけれど、この司法権の限界を論じた芦部憲法が問題としていたようにみえて十分に論じなかったのは、ほかならない、司法権の限界です。芦部憲法が成り立つのは、アメリカにおいてあるように憲法を守ろうとする立法権と行政権と司法権を前提としています。(トランプですら「解釈改憲」をしません)。これを前提に、司法権を軸に展開する憲法の可能性が語り出されることになります。ところが、初めからそもそも憲法をまもるつもりもないし、(芦部の名前もきいたことがない)、将来的に総理大臣がでてきたときに、(そしてその可能性を予見できたとき)、どうしたらいいのかということについて何も語られなかったのですから、(ノスタルジーをすてるためにあえて書きますが)、当時はそんな憲法論は知を秩序化してくれるとばかり衝突もなくラクラク簡単に読まれたから流通したのかもしれません。今日からみると、芦部憲法からは見えなかったものが、安倍的なものです。安倍政権の祭政一致的な方向づけをもつ文化論を以ってかれに都合のいい憲法の政治を現実化してしまった現在、政治の全体化に対抗する次のパラダイムの準備を、と思っています。憲法の重要な意義は変りませんが、問題は、安倍戦争法、秘密保護法、共謀罪と彼が望むものが全部立法化されたのに、左翼がここだけに集中しているようみえること。そのような「一国」知を脱すること。ヨーロッパは新しい普遍主義の形をさがそうとしています。このヨーロッパのデモクラシーをみるだけでなく、アジアの現在進行形のデモクラシーからも考えてみること。そしてそのためには、アジアの知を覆うグローバル帝国論の「帝国」知も批判的に解体することが必要となってきたのではないでしょうか

だれが日本人なのか?

‪ ‪‪ ‪トランプが大統領就任後にサインした、連邦裁判所によって違憲とされるような、彼の移民排除法は何々国の人間は皆危険だと決めつけていくことになりますね。トランプはいきなり差別を全体化することになったのではありませんよ。トランプは選挙中に、オバマがアメリカ人でないと言い続けていたのです(選挙中にこの疑いを撤回しますが)。排除は個別的なことから始まったのです。たとえ当然にゆるされるような、そんなに大袈裟でない要求だとおもっているのでしょうが、野党指導者の一人に向かって戸籍を公にみせよをいう要求が将来、何かとりかえしのつかない全体化の危険を招く始まりを為すかもしれないことを全然考えないとしたら、それはあまりにナイーブ過ぎる‬というものではないでしょうか。またこれとは別に、「日本人はだれか」と定義をしたがっている起源にふたたびこだわりをもちはじめた人たちに言いたいことはこれだけです。「日本人は日本人である」という堂々巡りにしかならない問いは、あなたたちをほんとうに幸せにするのかしら?

Rosetta Stone (ロゼッタストーン)

Rosetta Stone (ロゼッタストーン)。古代ギリシャという「亜周辺」からみえてくる、古代エジプトと等価のものがこの石に定位しているということか?言語の端に現れた、翻訳・旅・変容という運動からイメージへの過程に触れてみたーなぜ大英博物館にあるのかという観念に囚われるまえに‬

本居宣長

‪『古事記』は遥か古代から現在まで連綿と語り伝えられてきたといいたいのでしょうか?だけれど声は言語の端にたつ鏡が映し出すには境界なくあまりに大きいことでしょう。わたしはアマチュアですが、それは無理というものです。だがそれを書いた人の姿がこの鏡に現われることは、ベラスケス「侍女の間」での場合と同じだと思います。そのとき問題となるのは、歴史的にどういう条件でこの書く人が可能となったかですよね。‬ •‪「上つ代のかたちよく見よいそのかみ古事記(ふることふみ)はまそみの鏡」本居宣長『玉鉾百首)』

現代のデウス・エクス・マキナ Deus ex machina

マネタリズムがみようとする‪均衡が安定した状態か、この反対に、マルクス経済学がみる不均衡で不安定な状態ならば、簡単に気がつくだろう。だがこの二つのどちらかの内部からみようとすると、不均衡なままに安定している状態というものに気がつかない。問題がみえてこないというか。ケインズが指摘したポイントだ。ここから脱出するためには、世界の端から、鏡像的なデウス・エクス・マキナDeus ex machina の介入が要請される。‬供給の端から需要をみるのではなく、逆に、需要の端から供給をみてみようというのである。‪そのとき財政政策と金融政策を一緒に機能させる‬

劉暁波 (つづき)

‪日本人は、外国の作家が検閲されている中でギリギリに書いている厳しい現実を考えずに、書いてある通りにそのまま読んでしまいます。だから思想・表現の自由について書いた文を読んでは、アメリカン・デモクラシーの複数政党制と人権を要求している活動家と整理し分類してしまう人ばかりなのです。(中には、ネオリベ資本主義の擁護者だと見做す人たちが出てくる始末です)。劉暁波にとっては非暴力の抵抗しかないわけですが、しかし見逃すことができない重要な点は、思想・表現の自由スターリニズムにもたらすのは、その死、革命のほかにあり得ないことは自明でしょう。歴史から学ぶことはそのことです。書かれていないその可能性も考えることができるような批判精神が非常に限られているのはどうしたことでしょうか。自戒をこめて