21世紀の紫禁城

‪このマキャベリストはアジアに来て、ポピュリスム的偽物性を存分に発揮していますね。<マッカーサー>トランプは見事に、アベを子守するベビーシッター。紫禁城に来ては、ガイドの説明を熱心に聞く観光客アメリカ人に変身。習近平毛沢東を演じているのか、彼は中華文明の奥深さを教えているという阿呆なコメントも含めて、何もかも表層的‬。それぞれの国内に向かって成果を宣伝する必要もある。みんな仲良くみえる。ヘイトスピーチを交換する友情は時代遅れになったのかもしれない。確かなことは、グローバル資本主義の時代の独裁者たちが覆うヴェールによって、人権の抑圧と言論の自由の危機が隅々まで隠蔽されはじめたこと。トランプだけが検閲なくして海外にツイートする言論の自由が与えられているが、人権の抑圧と言論の自由の危機についての批判が140字にあらわれることはあり得ないでしょう。



‪"There is only one big loser in Trumpworld, and that loser is President Trump himself"‬

‪ー The Guardian‬


‪海外新聞は外交の勝ち負けをはっきりさせるから分かりやすいね。トランプは敗北した。中国との「最重要な関係」を言うだけで、対米貿易黒字の問題、北朝鮮問題、人権問題、台湾問題は何も解決されていない。結局トランプタワーのポチ「同盟国」に武器商品を買わせたただの商売人‬


韓国大統領府はトランプ大統領との夕食会に元慰安婦を招待、なぜ外務省は理解できない

‪韓国大統領府はトランプ大統領との夕食会に元慰安婦を招待した。外務省は理解できないという。なぜか?そもそも朝鮮儒学の知識人が古代日本の為に尽したその善意を踏みにじって、彼らの国を奪いとったこの国に対する恨みを考えれば理解できる。イスラムのヨーロッパに対するように、近代に木霊する地域を越えて存在する共通の屈辱感‬から寧ろ学ぶことが大切

「なぜ、アメリカはアラブに問題を起こすのか?戦争しようとするのか?」

‪「なぜ、アメリカはアラブに問題を起こすのか?戦争しようとするのか?」


カフェで、ロンドンに亡命したアルジェリア人からきかれた。イギリス人に問うことができないことを、アジア人に聞いてきたのだろう。このときは、資源が欲しいというようなわかりきったことしか答えられなかった。もっと根本的で決定的な理由をはっきりと答えられない自分は何者なのか?わたしは自分に苛立った。西欧の物の見方のなかにあってそれとは別の見方ができないでいる。近代化・ヨーロッパ化に消去されなかった伝統をもっていないと答えられない問いではないか‬とそのときはじめて考えることになった

世界帝国


質問「テイ デユスコロン(難しいことは何か?)」
トランプ大統領「帝国としての自己(アメリカ)を知ることだ。まだアメリカだけで軍事的行動を起こすことができるが、もはやその財政的支えがない」

質問「テイ デ エイウコロン(では容易なことは?)」

トランプ大統領「米国産の武器を売り雇用を増やすこと。グローバル資本主義の分割である世界帝国の一員ならば、露、中、EUヨーロッパと共にやっていける。米国の軍事的優位は揺るがん。ローマ帝国がやったように力の恐怖を以て世界を支配してやるさ」

ナショナリズム

‪国家はナショナリズムの住処である。この国の部分であるという観念と、その対を為す観念ーどこの国にも属さないとするナショナリズムーが相補的に存在するのだろう。そうして、どこの国の人の言葉かわからんけど、戦争の危険な意味づけを以て、純粋ジャパンは「武士の国」(=アメリカ)だとトランプさんは教えてくる‬

トランプのジャパン訪問を読む

‪今回のトランプのジャパン訪問は大失敗でした。20世紀的な「同盟」という物の見方では通用しなくなっているから、それとは別の見方を一緒に考えてみるべきだったのですけれど、どうも何も為されなかったようですね。「同盟」という物の見方とは別の見方からする国家は、異常な国家とされているのです。もう20世紀の国家に戻る必要がないのに、「正常な」国をつくりなおそうと一生懸命になればなるほど、アジアに共感をもたない安倍さんの国になっちゃうんだと思っているんですけれどね。何があってもアメリカにくっついていくだけの日本は、20世紀が半ば生きており半ば死んだという、フーコがいう意味で、この国は「病んでいる」状態かもしれません。‬


‪「人間諸科学の根源的構造には、生命一般に関する考察よりは、病人に関する考察がある。従って人間諸科学とは「正常と病理」の対立による構造から生まれたものだから、ポジティブなものを規範として提出すると同時に、ネガティブなものからも離れられないという奇妙な性格を有する」(フーコ-『臨床医学の誕生』)

『ユリシーズ』

「どこで書かれたのか?」という問題は、近代文学にとってはどうでもいい話である。文学を読み解くヒントとしてそんな場所の話を口にするだけでも恥ずかしいのである。ジョイス『ユリシーズ』は、近代文学に毒された日本の読者にとっては、ダブリンを舞台にした小説だと知っていれば十分である。逆に、アメリカ人ならば、7年間かけて書き上げられらたオーストラリア-ハンガリー帝国時代の(現在イタリアの)トリエステを訪ねて行ってきた後に、その位置を地図で指差せば己の知識に王冠を授けると同じくらいの効果があるらしい。そういう私も、アリタリア航空で便利に安くトリエステに行けることになったから、行くつもりである。実現すれば三度めの訪問となる。交通的な問題で色々リスクのある旅となるかもしれないが、ウイーンとの距離について、その距離の意味も含めて、考えなければならないとおもっている。(ちなみにフロイトトリエステに来ていた。トリエステはヨーロッパの端と表象されていたから、ここから精神分析の言説がはじまったと言ってみ言い過ぎではない。トリエステに来なければ、フロイトの普遍主義が住処にしていたルネサンスのモーゼが分裂することはなかったかもしれないーギリシャヘブライの間で。) トリエステのジョイスは東欧ユダヤ人の文学仲間がいた。カフカの原稿コピーを読んでいた可能性も指摘される。ユダヤ的なものへの大きな関心は、妻ノラのピリオドなき手紙を利用して、挿話「ペネロペ」を書いたことにも現れているという。文学の書き方への影響関係は定かではないが、これについては、私が勝手に考えていることもある。ピリオドとは本質的にモナドつまり無限なのである。モナドは身体を住処としてるが、精神の眼でしかこれをみることができない。ここに、読者はジョイスの文のモナド-点を見ることができない理由がある。ただ文だけは運動の線として無限を突き抜けるのだ。どのページも運動の痕跡を残している。と、バロック変態的に妄想しているのだけれど、なにか?