私は暇人であるけれど、この4つを欠いた芝居などみたいと思うほど暇ではない。フーコ『言葉と物』はこの4つのことをラジカセに問うたー
1、いかに言葉を秩序づけるのか?
2、いかに物を秩序づけるのか?
3、いかに映像と言語の関係を秩序づけるのか?
4、これらの三つの問題は<言説>によって考えられることになるとき、近代が発明した人間も<言説>である。さてこのとき、なぜ、いかに、文学が<言説>に介入するのだろうか
私は暇人であるけれど、この4つを欠いた芝居などみたいと思うほど暇ではない。フーコ『言葉と物』はこの4つのことをラジカセに問うたー
1、いかに言葉を秩序づけるのか?
2、いかに物を秩序づけるのか?
3、いかに映像と言語の関係を秩序づけるのか?
4、これらの三つの問題は<言説>によって考えられることになるとき、近代が発明した人間も<言説>である。さてこのとき、なぜ、いかに、文学が<言説>に介入するのだろうか
寅吉、Go!
平田篤胤の『仙境異聞・勝五郎再生記聞』(岩波文庫)、なんか凄いことになっていますが、その意味を問う必要があります。鎖国?みたいな時代の閉塞感みたいなものが外部世界への想像を爆発させているのでしょうか。
「仙童寅吉200年」とは何か
「明治維新150年をいうより、仙童寅吉200年を考えた方が日本社会にとって大事であるかもしれない。」と子安氏は書かれています。なるほどそうして考えてみると、まだ200年しかたっていないんだと感慨深いものがありますが、文政3年(1820)の江戸から、50年で、明治維新が来ることの意味を考えることに。すでに情報社会であった江戸社会は異界情報をどう読んだのか、このことを平成が終わろうとする日本社会は自らを読むために読もうとしているようにみえます。情報社会の「情報」とは、知と知との出会いのことでしょう。異界情報の「異界」は、共通の空間そのものが、そこでは崩壊しているということを意味しているのか?否、というか、統一しようとすることが無理なようなそれです。ここが「明治維新150年」における統一を考えるより全然面白いところなのではないでしょうか。明治維新が語る「王政復古」という知の無理を明らかにしようとするとき、明治維新が築いたその150年<後>から考えるよりは、仙童寅吉とともにその50年<前>から考えるほうがみえてくるものがあるのではないかと思います。
「芸術は決して、誰ひとり自分のそばへ呼び寄せようとはしません、いや、芸術は影響などということは問題としていないというのが、私の普段からの推測です。」とリルケはいう。他方で、文化共同体とは、なにか、自分でないもののそばへ呼び寄せようとして、影響ということだけを問題とするという伝達ではないか
芸術も、誰ひとり自分の側へ呼び寄せようとはしないで影響などを問題にしないとき、「體なきによりて、これを視れどもその形見えず、これを聴けどもその聲聞こえず」と比べられるか
「芸術は決して、誰ひとり自分のそばへ呼び寄せようとはしません、いや、芸術は影響などということは問題としていないというのが、私の普段からの推測です。」(リルケ、1922年3月13日ボートレンダー宛)
東京演劇アンサンブルの納会で同席したときだったと思うのだが、「1960年代に『言葉と物』はフーコが四十代のときに書いて、僕が三十代のときに翻訳した。いま五十代になった本多くんが読んでいる」、と、渡辺一民氏から言われたとき、嫌なことを言うなあと思ったものだ(笑)。そのときは、二十代のときから読んでいるのに、読む力もなく読めていなかったのが恥ずかしかったし、正直現在も読めないでいる。渡辺氏のフーコを知らない時代にフーコが何を言っているのかを知るのは本当に難しいことだったに違いない。現在は、時代と対等な大きさをもつ古典としても確立したフーコをわかってしまったようになっているという時代にそれゆえにフーコが何を問おうとしているのかを考えるのがかえって難しくなってきた。しかしこれはフーコに限らない話で、外部の思想をいかに獲得していくかという問題だと気がついてきたのだけれど。考え方として、時代と対等な大きさをもつような漢字で書かれた原初テクストをよむための工夫から、日本語が生まれてきたというふうにかんがえてみると、その日本語は原初テクストをよく読むために絶えず自らを再構成していった。この漢字と日本語の間で起きた事は、古典ギリシャ語とラテン語とヨーロッパ語の間で起きたかもしれない。話し言葉は書かれた言葉の文法性に依拠しているというのが、アジアからヨーロッパをみてみた視点である。同様なことは、1000年の時間で観察しなければならないが、外部の思想を読むために日本語が自らを再構成していくことがあるだろうと言っているのである。言葉は成熟をもってはじめて思想の言葉を自由に喋ることができるようになるのか。『言葉と物』の翻訳の言葉はその痕跡に違いない。
これからの世界、これからの教養、は、多様体の方向を訴えた八〇年代の響きがある。これから何とかしなければならないとする危機感から言われる言葉だろう。問題は、八〇年代のように、再び、明治の漢語「国民」の設計通りに、国に民がくっつきすぎた「公」のあり方を問わずして済むのかという点だ。<天下の公>に向けて新しい普遍主義の再構成なくして、「公」なき文化共同体(民族主義)の層を"これから"厚くすればいいという話ではないのである。この30年間、競争しあう資本主義の国家を住処にしている「公」なき文化共同体が、ライバルの資本主義の国家の他者に対してどんな言論上の振る舞いをしてきたのかを学ぶことがないようでは、これからを委ねる「教養」の言葉も、大事な言葉なのに、実がないうつろな言葉になってしまわないかと心配におもう
抽象「X」だけで考えようとしたら大変難しいけれど、「Xへの手紙」という風に方向づけるならば何とか考えることができるようになる。抽象「X」にたいする「への手紙」という言葉の介入によって、「X」について自己同一的な限定された物の見方から、「Xへの手紙」という限定されない見方が生まれるという過程をなんだか面白くおもう。言葉は方向づけてくれるのである。「X」は互いに遠くにあった物どうしを指示しているとしたら、「Xへの手紙」は互いに遠くにあった物どうしを近づけるかもしれない。この反対に、「X」は互いに隣接している物どうしを指示しているとき、「Xへの手紙」は物どうしを遠くに配置するかもしれない。と、このように言葉を記述することは、言葉を観察することであるとわかってくる。書くことによって、「X」は言葉を住処にしているそのあり方をみているということだ。この意味で、ベラスケスは初めて言葉を描いた画家だったのかもしれない。(と、20世紀のポスト構造主義は発見したのであった。問い提出される。ラングとパロールは本当にそれほど互いに離れているのか?映像と音声は恣意性のなかに本当にそれほど一体をなしているのだろうか?)
昨夜遅くまでかんがえたのは、「事件としてのX」という見方、「不可避のX」という見方、である。そして両者の関係はどうなんだろうかと。この関係は無理に統一的に包摂して語るのではなく、寧ろ相補的に語るのがいいだろうと一応の結論みたいなものに達して眠ることができたのだけれど