漢字論

「<われ>であってはいけない。まして、<われわれ>であってはなお、いけない。くにとは、自分の家にいるような感じを与えるもの。流竄の身であって、自分の家にいるという感じをもつこと。場所のないところに、根をもつこと」Simone Weil


言葉は宇宙の中心にある<われ>の中にすんでいない。まして、言葉の場所は、ヨーロッパとアジアの間の揺れ動く背景を以って、<彼ら>という排除すべき否定的他者像を包摂してきた地としての<われわれ>ではあり得ない。<われ>と<われわれ>における二つの極に絡みとられてしまうのは嫌である。と、ここで、他者の視線のことを書くの早急かもしれない。回り道をしよう。<われ>と<われわれ>との間の壁を思いうかべるのである。この壁に掛かっている絵画=スクリーンを通じて抜け出ることができないかといつものように考えることになる。これは答えがない問題かもしれない。いま、人生にとって切実なこの問題を漢文・漢字エクリチュールとの関係において喋るのは、『漢字論』を読んでいるからか?漢字は日本語における漢字仮名文で考える思考を構造的に構成しながら、漢字は漢字として成り立つのは、それなくしては思考そのものが成り立たなくなるという不可避性を担っているからである。卑近性(音訓による書き下し文、漢字仮名文)と至高性(漢字で書いた形而上学)とが、場所のないところに、根をもつのは、不可避的に存在する他者においてである。そういう他者は、一国知<われ>であってはいけないし、まして、グローバル知<われわれ>であってはなお、いけないとおもう。『帝国の構造』において強要してくるグローバルな視点に介入させずに、とりあえず、近所どうし、隣の国どうしで、エクリチュールの問題をかんがえてみることはできないだろうか。

Au commencement était la Parole.

Au commencement était la Parole. 


「初めに言があった」。原語では言はlógosである。初めに漢字が存在したのは、ここで言われる「初めにロゴスがあった」のとおなじである。子安氏の言葉をひくと、「漢字とは、それなくしては思考そのものが現実に存立しえない不可避の前提である」。だから、「漢字は借り物である」とはいえない。漢字は不可避の他者だから。しかしここで敢えて、言説「漢字は借り物である」は何を意味しているのかをかんがえてみよう。そうすると、津田左右吉のように、「日本人がすぐれた文化をもつこと、従ってまた日本の文化をますます進めていくことでありますが、それについて大きな妨げとなるのは、シナの文字を日本人がつかふことであります。」という風に考えることになるのかもしれない。だけれど渡辺一民氏が語るように、マルクス主義をゼロにしてしまったら何もかもゼロとなってしまうというように、この場合に問題となってくるのは、漢字を否定し尽くすと、漢字だけでなく漢字が担っていた歴史もゼロとされてしまう危険があるのである。しかし、失ってこそ獲得できるのだと開き直るのが近代主義のパワーかもしれない。仮に借り物の漢字をうしなっても、怖れるな、根源的な起源を得るのだと大いに確信しているとき、この思考の動きはユートピアの言説に絡みとられている。そこで、思考の動きの停止が私のなかに起きる。ふたたび問う。「初めにロゴスがあった」のではなかっただろうかと。ロゴスとは書記的な言語の存在である。ロゴスの否定は、根源的な起源にあるのではない。繰り返すと、「初めに言があった」。思考の優先順序として、まずロゴスが存在した。ここから、ロゴスの脱構築的な解体が可能である。敢えていうと、否定し尽くすことは不要だ。思考作用は思考の動きと停止で成り立つ。停止で十分である。混在的に、差異の運動を通して肯定されるものしかそこに存在しない。‬

MEMO

‪‪戦争協力しなかった台湾のシュールレアリスムの詩人達の存在をめぐって議論されることは最近までなかった。なぜか?国家が言説化したこの一国<文学史>の問題は、国家が可視化した集団肖像画?外苑の聖徳記念絵画館における王政復古を物語る一国<アジア史>の問題とパラレル的に等価ではないだろうか


ロラン・バルトが語るパリのストリップ劇場では、裸は脱ぐことによって隠されるという。舞台は即ち仮面。これに対抗する形で、東京における物語の形成を殺すように進行する能の舞台も仮面ではないだろうか。声が声から抜け出ることによって隠されているのは近代であろう。痕跡は声にある‬


Paradox is the pathos or the passion of philosophy. 

Gilles Deleuze



革命が再び起こるべきだが未だ起こらないという、現在のような歴史の側面において、余分なものとしての我々とは、一体何なのでしょうか。近代に思考の全体は政治の全体がそうであるのと同様、革命という問題によって支配されています。

-フーコ、性の王権に抗して-


二十世紀の社会的=政治的な場における想像力の貧困が、一体どこから来るのかとその理由を探ると、マルクス主義が重要な役を演じています。[…]いかにしてマルクス主義と縁を切るかというモチーフが私の思考にとっても根本的なものなのです。-フーコ、世界認識の方法-マルクス主義をどう始末するか-


安倍的ナショナリズムに絶望している知識人達のなかで、私は一人ぽっちだと感じるのは、日本語に「内部」を感じるものが相当にいるからだ。この彼らは、普遍主義的に帝国主義的に、アイルランド英語は大丈夫かと聞いてくる。これは普遍主義(イギリス英語)が特殊(日本語)を住処とするような世界観である。外部にたいする拒絶を構成するのは、安倍ナショナリズムだけではないのである。


証人は、「昭恵夫人は関与していない」と言い切る。どうもこの人物は、安倍夫妻(主語)のために語る言表主体なんだね。いわゆる官僚の紋切り型で、政治的中立を保っていると自らを意味づけしたいようだが。証人が本当の事を言ってるとすれば、政治マターに関わることがなければないほど、どんどん政治的になっていく世の中なんだな、証言拒否のせいでほかのことはわからなかったが、そのことだけはわかった


‪「佐川の勝ち」(自民党議員)ならば、勝者はだれか?安倍に違いない。敗北者はだれなのか?朝日新聞と野党だけではない。自民党に3分2以上の議席をやりなお安倍政権に三割から四割の支持を与える国民、そして最後に佐川だろう‬。しかしまだ決まったわけではない。


誤字あり

A l'époque de Kant et de Hegel, au moment où jamais sans doute l'intériorisation de la loi de l'histoire et du monde ne fut plus impériesement requise par conscience occidental, Sade ne laisse parler, comme loi sans loi du monde, que la nudité du désir. C'est à la même époque dans la poésie de Hölderlin se manifestait l'absence scintillante des dieux et s'énonçait comme une loi nouvelle l'obligation d'attendre, sans doute à l'infini, l'aide énigmatique qui vient du < défaut de Dieu>. Pourrait-on dire sans abus qu'au même moment, l'un par la mise à nu du désir dans le murmur infini du discours, l'autre par la découverte du détour des dieux dans la faille d'un language en voie de se perde, Sade et Hölderlin ont dépose dans notre pensée, pour le siècle à venir, mais en quelque sorte chiffrée, l'expérience dehors?  (Foucault)


クリントン元大統領が"The Guardian"紙に投稿したらしい。ダブリンにわたしが住んでいたときだったが、彼が関与した和平交渉が成り立った、EUゾーンである国境を英国EU離脱によって再び国境問題にしてしまうことの危険性を訴えているとのこと、それはその通りだと思う



タイムラインに流れてきた、あまり理解できていない思想家の言葉である。現在改めてどう読めるか。敢えて言うと、均衡と安定、連続性にかんする二つの真理が問題ではない。同じ時代に共存した二つの言説が問題。もしそうだとしたら、偶然のその共存から一体何が言えるか?‬言説(卑近性を語る語り)と言説(至高性を語る語り)の間の関係が問われるということかな。 ‪「プロレタリアートの問題とは、社会科学を構築することである。ところが、この時代にはもはや近視眼の経済学者と狂信的な社会主義者しかいない」(プルードン『貧困の哲学』)‬ 


考えるとは何でしょうか?考えない存在について考えることをはじめたのは、2011年からです。原発体制の問題をめぐって、(問題を)正すことがなければ考えることができないと思ってましたが(だから相補的に、考えることは自分に対する抗議を為すものですけれど)、同じ学校教育、同じ価値観なのに、考えない存在は、原発体制の問題を考えてしまうと思考一般が成り立たなくなるという風に考えるようにみえるのですけれどね。(しかし現在私自身はこれについては何も行っていないのだから、私は自分が考えることをしているかと自己に問えば、恥ずかしながら、Yesとはいえないでしょう)

‪漢字も眠るのだろうか。眠っている間、夢を見るのか。

漢字は夢のなかで、‬

仮名の肉体をもっていたり、‬

‪アルファベットの肉体をもっている自己を見ている。‬

‪目覚めは死‬。目覚めたとき読まれてしまうから。

そのときは漢字は声を住処にしなければならなくなるだろう。

‪だから漢字は目覚めないために、

夢を発明し続けなければいけない。

だけれど漢字は‬いつ漢字になるのだろう‬か

‪しかし目覚めてしまったら‬、天に伸びていくか‬

‪地に帰するのか‬

ジョイス

‪ジョイスの「自分で決めた亡命」によってアイルランドの外部で書いた、1916年の英国植民都市ダブリンを舞台にした『ユリシーズ』に登場するダブリンの人々は、古代イスラエルを住処としている。語りかたは、よく知られているように、まるでカメレオンみたいに自由自在に変身するのだが、語り手はストーリーテラーのジョイスである。和辻哲郎も、ホメロスを文献学的に読み、また古代イスラエルのことを解釈学的に語っている。『ユリシーズ』は昼の本だとすれば、『フィネガンズウェイク』は夜の本であるという。その語り手はジョイスだけれど、作品中の彼の告白によると、言葉どおりの確信がないのだけれど(どうなるのかわからない)、二人共同体が書いていることがどうも新しいらしい。語り手は、「公」の三者が介入しない関係として、宇宙の中心を住処とするジョイス自身と神話の想像力豊かな匿名的多数主体でなければならなかった。(わたしは二人共同体をアカデミックに厳密に理解しているわけではない)。ここで重要なのは、古事記』という偶像の再興者・和辻哲郎が考えたように、「民族の国家的な統一を作り出す政治的制作力と同等ば文化的な統一を作り出すような文学的創作力」(子安氏)について考えてみることであろう。問題となってくるのは、芸術作品としての「古代」の文学の言語は、和辻が考えたように「ひとつ」でなければならないのかという点である。和辻が解釈した芸術作品の言語から、いろいろな異日本語が排除されているというその理由がわからない。ユートピア的に、「固有なもの」を生み出す一国知の<特殊を通じて普遍へ>と同様な、一国知の「文学の解釈」だからなのか?『フィネガンズウェイク』は読むことができないのは、五十カ国以上の言語で文を書いたからなのだけれど、混在なもの(エテロクリット)、そこにおいてしか、不可避の他者との関係によって自己との関係を構成できないとジョイスは考えて、時間の深い流れの散逸を書いた。同一性が語られるとしても、ニーチェの文学とおなじように、それは、<同一者〉の〈回帰〉と人間の絶対的散逸との同一性である。


(参考)

‪「かくて言語の共同は一定の人間共同体の範囲を示すことになる...では言語の共同の範囲は何であるか。我々はそれを「民族」と名づけてよいであらう。古来史上に現はれた民族にして言語の共同を第一の特徴としないものは、ただ一つユダヤ民族のみであらう。がこのユダヤ民族に於いてさへも、その民族的統一を表現するものは、まさしくヘブライ語聖典である。即ち本質的に言語の共同の上に立っているのである。」(和辻哲郎)‬


フィネガンズ・ウェイク、二人共同体から始まる !?‬

「あいつは、哀流濫士のけちな割れ豆を我慢するより熱いレンズ豆のポタージュでやけどをする方がましだと言い、一人で(女)と逃げ出して、ヨーロッパの異邦人になりやがった」(宮田恭子先生訳)‬

He even ran away with hunself and became a farsoonerite, saying he would far sooner muddle through the hash of lentils in Europe than meddle with Ireland's split little pea. 

(Joyce, 'Finnegans Wake')‬


ソクーロフはいかにルーブル美術館を語ったか

ルーブル美術館をヨーロッパ起源と等価なものとして再構成するのは、アジアから船で運んできたオブジェたちでこの建築物を作ったナポレオンの植民地主義を隠蔽する作り物語だろう。だけれどこの種の隠蔽は第二次世界大戦で起きた。不潔なボヴァリー夫人の映画を実現した、ロシアという外部の視点を以て、ソクーロフは、帝国ドイツが発明したヨーロッパ起源のルーブル美術館の映画を語っている。ドイツは文化政策によって「普遍主義」の内部に支配者の痕跡を消したのである。これに関してやはり言っておかなければならないのは、その反対の方向から、近代日本は「特殊」の中にアジアにおける支配者の痕跡を消したという事実である。世界でも稀な、「国土」として表象された、ヨーロッパ帰りの知識人の「土」への執着は、ヨーロッパ(ドイツ)からの差異化として説明されることなのだろう。支配者が普遍に身を隠すか、特殊に身を隠すかの違いがはあるが、問題は、文化の目的と国家の目的が一致させられた危険な全体性から、国家が隅々まで監視することをゆるす方向がすすむことである。そこで監視される国民が自らを監視する。この生きた文化を理解しないものは排除されるべきである、と。監獄を必要としない文化のあり方、これは、『監獄の誕生』フーコのテーマであった。映画が語らないことが重要である。それは、伊勢サミットを受け入れてしまった21世紀のわれわれは、1940年代における文化と国家の結婚からそれほど自由になっているのかという問題提起である。‬

一国知の問題

一国知はもうたくさんだ。必要とされているのは、近所どうし、隣りの国どうしの知の共有である。共有とはともに考えること



周辺の特殊は、近所どうしの関係から切り離された場所で、自らの固有性を解釈しても、そこに否定した普遍が再び現われているだけ。普遍は、住処とする特殊から、自らがそれほど普遍的に非ずと語る。問題は、一国知の構造ー中心の普遍が周辺の特殊の代わりに語るーは変わらぬとき、特殊は益々普遍的になっているということ