発音記号



わたしのダブリン時代はゲール語の辞書に発音記号はありませんでした。ネットではあるようですが、本屋に発音記号のある辞書をおいていませんでした。友達に理由を聞きましたら、言語は共同体に属するから、直にゲール語を喋るひとたちから言葉の読み方を教わるべきだということでした。しかし私が思うに、もしかして、これはあまりに、アンチ大英帝国イデオロギーではなかろうかとおもっています。ところで発音記号はほんとうに必要でしょうか?結構難しいですね、これは。何か英語に侵入されると危惧されることがないように願ってますが、大袈裟に考えるのではなく、時々役に立つ発音記号に慣れるために、ひらがなにもひとつひとつ発音記号を示したらどうでしょうか?ローマ字を勉強するようにですね。そういう試みがあってもいいと思います。外国の方にわたしたちの会話はどう響くのだろうかとおもったりしませんか?と、こう考えた子供も発音記号の知識を以って日本語の特徴もよく理解できます。漢字文化圏のアジアのどの言葉もそれぞれ心地よい響きがありますが、それはなぜだろうかという理解も発音記号の知識が一定程度役立ててくれるかもしれません。発音記号が便利とは限りません。こういうことも知るためにも発音記号を勉強するのは無駄ではないだろうとおもいます。


たかが発音記号、されど発音記号。ブルバキのことばかりいわれるけれど、音声学を知らずして記号学構造主義を理解できない。そこから誰も彼も記号学構造主義に行く必要がなく一人でいいのだ、と、音声学の大家が憂いているとその娘が話してくれた。学生時代にきいた話だったが、その意味はなんだろうかとはっきりとわかっていない。今日ならば、ポスト構造主義とポストコロニアリニズムから<帝国の構造>へ行くのはひとりで十分だ‬ということになるのかしら

『野性の少年』(L'enfant sauvage フランソワ・トリュフォー)

野性の少年』(L'enfant sauvage 1969)は、フランソワ・トリュフォー監督 François Truffaut がJ・M・G・イタールによるアヴェロンの野生児の記録を映画化した。 イタール博士はトリュフォー自身が演じている。 この戯曲は、アイルランドに行く前に、フランスの映像作家のもとで一年かけて読んだ。『アヴェロンのヴィクトールの新たな成長に関する報告書』Rapport sur les nouveaux développements de Victor de l'Aveyron 1806 は、フーコ『言葉と物』(第4章 語ること)が言及している。これを読んではじめて、"言葉は言葉についてなら語ることができる。言葉は映像が語るようにはつくられてはいない"とするゴダールの問題意識がある時代の言説に深く関わっていることを理解できた。『映画史』の構想は「語ること」をめぐる言説に対する批判の目的をもっていたのである。


La proposition est au langage ce que la représentation est à la pensée; sa forme à la fois la plus générale et plus élémentaire, puisque, dès qu'on la décompose, on ne rencontre plus le discours, mais ses éléments comme autant de matériaux dispersés (...)‬

‪Le sauvage de l'Aveyron, s'il n'est pas parvenu à parler, c'est que les mots sont restés pour lui comme les marques sonores des choses et des impressions qu'elles faisaient en son esprit ; ils n'avaient point reçu valeur de proposition. Il pouvait bien prononcer le mot < lait> devant le bol qu'on lui offrait; ce n'était là que < l'expression confuse de ce liquide alimentaire, du vase qui le contenait et du désir qui en était l'objet>; jamais le mot n'est devenu signe représentatif de la chose car jamais il n'a voulu dire que le lait était chaud, ou prêt, ou attendu. C'est la proposition en effet qui détache le signe sonore de ses immédiates valeurs d'expression, et l'instaurer souverainement dans sa possibilité linguistique. Pour la pensée classique, le langage commence là où il y a , non pas expression, mais discours. Quand on dit < non> , on ne traduit pas son refus par un cri; on resserre en un mot < une proposition tout entière; Je ne sens pas cela, ou Je ne crois pas cela>‬

‪ー Michel Foucault " Les mots et les choses"‬


「‪命題は言語(ランガージュ)にたいして、表現が思考にたいするのと同様の関係にある。すなわちそれは、言語(ランガージュ)の最も一般的な形式であり、同時にそのもっとも基本的な形式にほかならない。なぜなら、命題を分解するやいなや、もはやそこに言説(デイスクール)はなく、ただばらばらの素材としての要素があるだけだからだ。(...) アヴェロンの野生児がことばを話すようにならなかったのは、彼にとってさまざまな語が、物や物から彼の精神が受け取る印象の、音の世界における標識にようなものにとどまっていて、命題としての価値うぃ帯びていなかったからである。彼は差し出された鉢をまえにして「乳」という語を発音することができたが、それは、「この飲料と、それのはいった容器と、それを対象とする欲望との入り混じった表現」にすぎず、語はついに物の表現的記号(シーニュ)とはならなかった。なぜなら、彼は、乳が熱いとか、乳の用意ができたとか、乳を待っているなどとは、決して言おうとはしなかったからだ。事実、命題こそ、音声記号(シーニュ)を表現としての直接的価値から切り離し、それをその言語としての可能性のうちにみごとに位置づけるものにほかならない。古典主義時代の思考にとって、言語(ランガージュ)は、表現のあるところにではなく、言説(デイスクール)のあるところにはじめてあらわれる。「いいえ」(non)と言う場合、人は拒絶を叫びによって翻訳しているのではない。この一語のうちに、「...わたしはそう感じない、あるいは、わたしはそう信じない、という命題全体」を凝縮させているのである。」‬

‪ー フーコ『言葉と物』第四章 語ること、3 動詞の理論‬

ゴダール

‪『映画史』は、言説とは何かについて理解をもっていないと、全体像の理解が成り立たないかもしれない。私はどうか?少なくともそれがゴダールの言説の歴史という性格をもっていることをなんとか理解している。だけれど多くの言説を読み解けないままでいる。「映画は写真の後継者」と言われている。その意味は道徳的なものである。これを解釈するためには、19世紀の芸術としての写真のあり方を巡る賛否両論があったことを知る必要がある。レッセフェールの資本主義に対抗して、芸術の起源とモラルと独立性を発見しようとする言説はレンズの意味を問うた。絵画として、又はその代替物として、国立美術館に、写真が展示される日が将来やってくるかもしれない。そのためには写真は芸術とならなければならなければないと。ゴダールは、『複製技術革命』のベンヤミンを読んでいる現代の感覚からすると保守的にみえるその写真の言説を再び語りだす。とはいえ、写真について新しく語りだされようとしている誰も言わなかった言説をあたかもずっと前から言われてきたかのように偽装しているのだけれど、そうしてグローバル資本主義の時代と等価のものをスクリーンに指示しようとしているわけである。スクリーンは起源のないもの、彼にとって、スクリーンは喪衣である、理念的な意味で。この意味は益々、形而上学的になっていく。時々呆然としながら、言葉、言葉、言葉... 語られていることをその通りに聞くしかない映画は死に対する感覚をもっていてモラルも非常に強かったので、カラーからはじまる出発を拒んだほどだと物語られる。(しかしわたしは白い喪衣といわれても実物を見たことがなかったのだけれど、平家物語のキャラが出てくる能の舞台ではじめて神々しく呈示されているそれを窮屈な思いで見ることに。大島渚『儀式』の場面のなかで愚鈍に示されていた喪衣を思いだすほうがいい)‬

ゴダール

1950年代迄に映画はそのあるゆる可能性を尽くしたといわれる。映画は失敗したまま完成してしまったというか、とにかく、映画に未来はなかった。映画は、トーキーの時代に忘却されてしまった過去の映画を読み解いていく映画の痕跡を拾い集めるだけである。例えば『野生の少年』(トリフォー、1970)のように。ここからはじめて、分節化された映像のなかに、それをつくる人間の姿ー物語のなかに分節化されないーが投射されたのである。それまで映画は視野としての映像しかもっていなかった。21世紀に映画が消滅し切ったとしても、1950年代から、トリフォーとゴダールのおかげで、スクリーンは自らを見ている投射をもっていたから、他者からの問いが成り立つことができた。その問いとは、存在しないものが存在しているのではないかという倫理的なものである。この問いは、映画が存在していた時代には不可能であったことは説明の必要もないだろう。

白紙の本

日本人は『朱子語類』を中国研究者による訳文を読むが、江戸時代の書き下し文で読もうとはしないという。ところが講座に参加なさっている中国人留学生から感想を伺うと、書き下し文が面白いという。この感想が面白かった。このとき、日本近代というのは、近世が行った朱子の書き下し文を消した白紙の本で成り立っているようなものなのかと考えてみた。近代は本を書くゲームに喩えると、それは空隙のスペースがひとつある規則によって構造の多様性が成り立つゲームを発明したわけだけれど、しかし明治維新から150年、近代のゲームは失敗だったことはもうわかっている。漢字の前近代を消し去ってしまった白紙の本に書かれていく多様性は本当にそれほど多様なのかということを考えざるを得ない。子安氏によると、荻生徂徠以降、外国語として中国語をよむことが課題となり、近代において書き下し文で考えられた思想が忘却されていくことになったというのである。横井小楠をはじめ、明治維新を批判した朱子学的批判も含めて

仁斎

‪縺れ合いという言葉で理解していこうとするわたしは、天は外部的に天を仰ぎ見る人をもたなかったら、流行的天と主宰的天の縺れ合いが成り立つことがないと思うのです。「人間にとって天命とは?」の問いかけが消されては、仁斎にとって朱子を読む意味がなかったのではなかったかですね。自然哲学的に、流行的天と主宰的天を同一化してしまっては、人はやっていけなくなるー正座して内部の永遠の命をみるぐらいしかすることがないでしょう

イエニー

‪映画のイエニーはロンドン時代のヴィクトリア朝風コスチュームでなくて本当によかったとおもっている。マルクスは、といっても、もちろん映画のマルクスのことであるが、人間の本質的平等観をもっていたので、かれのなかで「革命」の概念が成立していたように描かれている。映画は、このヘーゲル左派がエンゲルスの影響下でイギリス政治経済学を読むことによって「階級」の観念をもつに至る経緯を伝える。そうして後半では「階級」をめぐる同一性に絡みとられていく展開をみることになる。つまりマルクスが何を言ったか、誰がマルクスなのか、お前か、それともお前かという類の話である。再びイエニー。映画のイエニーが最後までフランス語で喋っていたのはどうしてなのか。フランス語をもたなければ「意味」がなかったそういう時代をあらわそうとしていたのか?ハーレントは亡命後に?ドイツ語を喋っている自分がドイツ人云々であるとはおもわないと言ったように、イエニーはフランス語を喋るからと言って自分はフランス人云々であるとはおもわないと考えていたのか。確かなことは、ロゴスが思考の優先順位をもつということ。ロゴス的存在としての人間の根拠が何であるかが問われている。フランス語をもたなければ「意味」がなかったそういう時代をあらわそうとしていたとしても、言語と時代に先行するのはロゴスの思考の優先順位である