大杉栄

‪「マイナスの価値(日本はダメだ)をいうのはいくらでもできるよ、こんな簡単な国ないよ。しかしプラスの価値を言うのが大事でしょう。これからどう生きるんだということ…を、言わなければいけない。そうしたら、若者はついてくると思う。そういう話を聞きたがっています。」ー小田実 2006‬


「日本はダメだ」を最初に言ったひとがいた。それは誰だったのかは正確に特定できるはずである。言説「日本はダメだ」の誕生の日付は、大逆事件以降だろう。そうだとして、これと正反対の方向から、すでに、大杉栄は人間がこれからどう生きるんだということを語っていた。プラスの価値を書く白紙の本を書く。そこで分節化されない思想の優先順位を言っていた。大逆事件は繰り返し、人間が定位する思想の自由をとらえて離さない。思想は国家による処刑の恐怖にとらわれたままである。敗戦後も、日本帝国主義との共犯関係が検証されることなく、曖昧に継承された「大正デモクラシー」は大杉栄をもつことがないから、思考の自由が成り立つことがないのである。

思想の歴史

‪思考の優先順序としてまず考えることがある。それは分節化されない変なものである。変なものが変なものとしてマイナーなポストモダン的多様性にとどまっていたらどうなっていくのだろうか?ところがこの変なものは、近代の単線的直進に対して「なんとかしなきゃ」と考えた変なものとしてやっていけなくなったとき、失敗した近代とは別の近代を対抗的に目指すユートピアの近代に絡みとられることになってしまうのかも。国家の暴力を呼び出してきたのではなかったか?‬このことは繰り返されてきた。「近代の超克」や「68年学生運動」のときも、後期近代に起きてくる宗教運動のときも、そうではなかったか

MEMO

「ーにおけるー」と、「ーというものー」、「ーにおけるー、ーにおけるー」はそれぞれ作用を為していているけれど、体をともなわせなければ意味がでてくこない。「日本における思想の歴史」(偶然性)、「日本という思想の歴史」(固有性)、「東アジアにおける仏教や儒教思想の、日本における展開過程」(不可避性)


どの時代も、確立した物の見方と異なる見方が起きてくるのだけれど、言語表現の成熟のなかで起きてくるときに新しい見方が常に頽廃しているなどと非難されるのは、マニエリスムとかヌーベルバーグについてみると、成熟が秩序の働きとしてみえるからで(本当は無関係)、成熟が可能にした新しい物の見方はあらわれるときは常にスキャンダルである事件としてあらわれてくるというか...


MEMO

モンタージュというのは、エイゼンシュタインの映画を見ればわかるように、建築と人間の関係の探求であった。(彼は時々、ジョイスユリシーズ』を朗読しながら編集した。つまり都市をモンタージュしようとしていた。) 映画は建築と人間も関係をとらえるとき、視点を意味するアングルの問題に取り組む。イスラムの建築と大仏の間にいかに関係をうちたてるかとする映像の組み合わせもある。と、思想はどんな視点をもつのか。「東洋と西洋はひびきあう。そのとき同じものどうしではひびきあうことがない」。と、ここから色んなことが言える。起源的本質に還元するのではなく、身体と身体をもつことから、身体の介入によって開かれた、分節化されない共通概念を理念的に構成しようということは可能か。映画を見て考えたい


いまの時期に、なぜ? 一生懸命国家を作り直そうとする人々の共感を呼ぼうとして、安倍ミックスだけでなく何があってもアメリカにくっついていくポチ外交も展開してきたが、何もかもうまくいかず、権力者は自分達が何をしているのか分からなくなる中で、究極的に処刑の恐怖でしか美しい国を感じられなくなったんじゃないのかしら?


あなたもわたしもまだ処刑されていないだけの話で、裁判で何の罪が問われているのかも告げられず、どこで処刑されるのかも隠されているという感じで、処刑が先行する。この国家はこういう方向に突き進んでいるのではないかとかんがえてしまった...


権力の集中がなければ救われないとする野蛮の帝国「明治維新150年」に向けて、西の文明が人間愛にもとづく同じ価値を共有しているはずじゃないかという言葉を送ってきている。だけど、この正反対の方向にある「日本人らしさ」に、歴史修正主義に、ヘイトと沈黙と処刑の三種の神器に希望を託していくのか?


‪変ななものは、マイナーなポストモダン的多様性にとどまっていたらどうだったか?近代の単線的直進に対して「なんとかしなきゃ」と考えた変なものとしてやっていけなくなったとき、失敗した近代とは別の近代を目指すユートピアの近代に絡みとられてしまったかも。国家の暴力を呼び出したのではなかったか?‬


‪1648年(ウエスファリア条約、イギリス内戦と共和制確立)から1815年(ナポレオン戦争終結、パリ条約)までの期間が連続性をもっているから、1810年代のターナーの1643年のレンブラントの風景画の読みが成立する。(その連続性は19世紀において解釈的に再構成された連続性であるとしても)。同じことを、今日から160年前の美術にするためには、だけれど、明治維新の特異的点断絶の意味を考えなければならない‬


‪寸劇; 朱子学


定食屋のおねえさん(ランチのメニューを開く)「いらっしゃいませ。今日は何にいたしますか?」‬

‪フクロウ猫(キッと姿勢を正して)「ここに、"明鏡止水"と書いてあるじゃありませんか?」‬

‪定食屋のおねえさん「はい、"明鏡止水"というお酒なんですが、召し上がりますか?」‬

‪フクロウ猫「お酒の名ですって?(ホー、慣れないことをしたから肩が凝ったぜニャ。) いいえ、きょうはやめておきましょう...」(と、再びクマのプーさん系のリラックスした姿勢になる)


意外にも、イギリスにも世襲議員たちはいる。労働党の場合、多分保守党も準じているとおもわれるが、親の選挙区から出馬しないという暗黙のルールがあるから、小選挙区制10万で成り立つ。純粋小選挙区制の話をするつもりでもなければ、ここの違いから日本では何が成り立たなくなったのかを、これからのことを考える為にも、経験的に明かにしないとね


‪「コミュ力」

全体主義については用心深く語らなければいけないですが、避けてもいけないとおもいます。「コミュ力」の究極は、安倍首相の支持率によって言葉を変えていくある種の全体性にあるのではないでしょうか。残酷なことをして支持率を上げるその支持率も4割程度で、自由と平等の言説を到底屈服できないですが、全体性に向かって自らを情報の客体に貶める拍手喝采であることにかわりありません


‪連鎖のどの項も、そこにはそれぞれの原因がその結果をもつように決定するものをもっている。至高なものが存在する。至高なものは遠くにはなく、卑近にあるにある最初の項として、成り立っている。朱子を読むとき漢字書き下し文が大切なのはそれが卑近だからだ。卑近な書き下し文によって、仁斎からの思考の歴史を辿ることができる(自然哲学、道徳学、制作学、国学、神学)。現代中国語とフランス支那学による解読をもとめて遠くに行く必要があるのかという問題がある


À chaque terme de la série, on est renvoyé à Dieu comme à ce qui détermine la cause à avoir son effet (Ethique, Spinoza). Ainsi Dieu n'est jamais cause éloignée, mais est atteint dès le premier terme de la régression.ーDeleuze

そのような連鎖のどの項をとっても、そこにはそれぞれの原因がその結果をもつように決定するものとしての神が存在しているからだ。したがって神は遠隔原因ではなく、原因をさかのぼればすぐ手前にある最初の項ですでにわたしたちは神に届いているのである。(鈴木訳)


Chaque attribut <exprime> une certain essence (Spinoza). Si l'attribut se rapporte nécessairement à l'entendement, ce n'est pas parce qu'il réside dans l'entendement, mais parce qu'il est expressif et que ce qu'il exprime implique nécessairement un entendement qui  le < perçoive> 

ー Deleuze


石田梅岩は忘れられてしまった思想家か?忘却されずとも、なぜ全体国家観がこの思想家を非難したのかその理由が十分に考えられてきたとはいえない。先週講座の後に、中国人学生がひとり、日本人は石田梅岩を継承するのかと問うたとき、それは大切な問題提起だったが、答えたひとがいたかどうかー私自身も含めて。


ネオリベ反知性主義でも単一価値でもなく、方程式の精緻な知性の祭壇のもとで何でもかんでも市場がやってくれるとするオカルトによっている。ネオリベと共に、カジノ国家が誕生した。4割程度の「拍手喝采」でやっていく。公に議論すべき問題について、自ら議論を放棄しているくせに、「意見の歩み寄りがないほど対立しあっている」という外観をつくって、次々に強行採決を正当化してしまうのは、なんか危険な感じである


‪puisque l'enfant n'est pas transformé en animal, il serait seulement dans un relation métaphorique avec lui, induite par son infirmité ou son rejet. Pour leur compte, il invoquent une zone objective d'indétermination ou d'incertitude, <quelque de  chose de commun ou d'indiscernable> , un voisinage < qui fait qu'il est impossible de dire où passe la frontière de l'animal et de l'humaine >...‬

‪ー D&G‬  ' Mille Plateau '


嘗て、外に出るなといわれたら外に出ていたけれど、問題は、そうして外に出たとき、いかに外に出るかを考えることをやめてしまっていたことである。これでは外を失ってしまっている


J'ai toujours pensé que le cinéma était un instrument de pensée.

ー Godard


J'ai essayé de faire un film qui ressemble aux livres que j'ai pu lire dans mon adolescence, ceux de Blanchot, de Bataille. Je me souviens par exemple de L'Expérience intérieur. A époque, je suivais les cours d'Henri Agel, il avait passé Terre sous pain de Buñuel et je lui avais dit; " C'est  une bouleversante expérience intérieure de l'Histoire." Voilà, le cinéma est pour faire de la métaphysique. C'est d'ailleurs ce qu'il fait mais on ne le voit pas alors ceux qui en font ne le disent pas. Le cinéma est quelque chose d'extrêmement physique de par son invention mécanique. C'est fait pour s'évader, et s'évader c'est de la métaphysique. 

ー Godard 1993


「わたしはずっと映画は思考手段だと考えてきた。」「わたしは青年時代に読むことができた、ブランショバタイユの本に似た映画を一本撮ろうとしたのだ。たとえば覚えているのは、バタイユの『内的体験』。当時わたしは、アンリ・アジェルの講義に出ていた。かれはブニエルの『糧なき土地』を見せてくれた。わたしはかれに「これはまさにに衝撃的な『歴史』の内的体験です」とかれにいった。要するにこういうことだ。映画は形而上学をするためにまさに存在する。そもそも、それは映画が現に行なっていることだが、ひとはそれに気がつかない。だからそれを行なっている人々はそれを公言しないだけの話だ。映画はそのメカニックな発明のために、何か極めて物質的なものであるが、それは逃避するために作られるのだ。そして逃避すること、それこそ形而上学にほかならない」。(ゴダール 1993 )


形而上学はいかに成り立ったのか?わたしはなにを知りうるのか?わたしはなにをすべきか?美とは何か?逃避すること、すなわち形而上学は可能か?


‪「しかも逆説的なことには、ここでいまわたしのいっていることは、厳密な意味においてフーコ的なのです。というのは、フーコの次のような主張がもつ深い意味は、不思議なことに、デカルトに投げかけられた非難からデカルトをも救うことになるということに気づくからです。フーコはこう言っているのです。<狂気とは、それは仕事の不在である。> これは彼の著書の基調音なのです。ところで仕事とは、もっとも基本的な言語表現とともに、ひとつの意味の最初の分節とともに、文章とともに、<かようなものとして>という最初の構文的な糸口とともに、はじまるものなのです。なぜなら文章をつくるということは、可能なる一つの意味を表明することなのですから。文章というものは、本質的に正常なのです。それ自体のなかに正常性が、すなわちその語のもつあらゆる意味における、とりわけデカルトのいう意味における、いわゆる意味(le sense)が含まれています。文章には、文章を述べる人の、あるいはその人のなかを文章が通り過ぎ、そこで文章が分節されていく人の、その状態や健康や狂気がどのようなものであろうとも、それ自体のなかに正常性と意味が含まれているのです。ロゴスは、そのもっとも慎ましい構文においては理性なのであり、そしてまた、すでに歴史的なある理性なのです。そこで、もしも狂気が、一般的に、人為的に決められた一切の歴史的構造を超えて仕事の不在であるとすれば、狂気とは、まさに本質的に一般的に、歴史性一般としての人生を切り開く区切りと傷口における沈黙、中断された言葉なのだということになります。」‬


‪(コギトと『狂気も歴史』より。デリダエクリチュールと差異』法政大学出版局)‬



‪Et paradoxalement, ce que je dis ici est strictement foucaldien. Car nous percevons maintenant la profondeur de cette affirmation de Foucault qui curieusement sauve aussi Descartes des accusations lancées contre lui. Foucault dit ; < La folie, c'est l'absence d'œuvre .>C'est une note de base dans son livre. Or l'œuvre commence avec le discours le plus élémentaire,  avec la première articulations d'un sens, avec la phrase, la première amorce syntaxique d'un < comme tel>, puisque faire une phrase, c'est manifester un sens possible. La phrase est par essence normale. Elle porte la normalités en soi, c'est-à-dire, à tous les sens de ce mot, celui de Descarte en particulier. ‬‪Elle porte en soi la normalité et le sens, quel que soit d'ailleurs l'état , la santé ou la folie de celui qui la profère ou par qui elle passe et sur qui , en qui elle s'articule. Dans sa syntaxe la plus pauvre, le logos est la raison, et une raison déjà historique. Et si la folie, c'est , en général, par-delà toute structure historique factice et déterminée, l'absence d'œuvre, alors la folie est bien par essence et en général, le silence, la parole coupée, dans une césure et une blessure qui entament bien la vie comme historicité en général.‬


‪ーDerrida, L'écriture et la différence ‬


哲学は自ら枯渇する(か思考として自らを裏切る)ということを告白することーおそらく哲学とはこうした巨大な告白なのでありましょう...わたしは、恐怖のなかでしか、つまり狂人であると告白された恐怖の中でしか、哲学しないのです。

ーコギトと『狂気の歴史』より。デリダエクリチュールと差異」)

‪Et la philosophie est peut-être ce gigantesque aveuー je ne philosophe que dans la terreur, mais dans la terreur avouée s'être fou.

ーDerrida


‪人間は生きている以上いつかは死ぬものである。老いということは体の中に生くるはたらきより死の要素が多くなって来たことを示すものである。然らば体そのものの中に、死に至る変化を現わしていても当然である。その死に至る変化をかかえて生きるのが人間の生きているということではないだろうか。

野口晴哉


ホー、とうとうクーラーからもあつい風が出てくるようになり朝からグッタリしまうほどでしたが、暖房のスイッチを押しゅていたことに気がつくのに30分かかりましたにゃー。と、またまた大袈裟なといわれそーですが、絵を描くときは隣人からゴキブリとよばれているような腹這いになって態勢で絵を描いているものですから気がつかなかったのですね。書き写して練習中の漢文もそのままのゴキさんですから虫の視点の漢文なんですかねー


美学


‪17世紀という時代は、美学が自分のことを喋り出す時代なんだね、17世紀はそういう場所をつくるというか。18世紀の問題は、絵と彫刻、音楽なんかー詩もーを語るようには言葉が語るようにできなくなってくる。私の理解では、この時代に、美学は書くことができない。この意味で美学はやっていけなくなるとき、それはモダンアートとしての理念をもつことが要請される。そして19世紀の美学は、近代が自らの独立性のあり方を問うような形で、時代に期待された自身のあり方と独立性を書くようになる。そうしてヨーロッパの普遍主義と等価となった美学は、だけれど、二度の世界大戦を経験した20世紀後半に再びやっていけなくなった。美学はモダニズムとの関係を批判的に問う視点をもたなければ、美学は美学として成り立つことが不可能である。そうだとすれば、たとえば近代主義の語彙である「時代」という物の見方ー単線的直進によるーに依存することができるはずがない。さて下に引用した文は、リゾームについて説明するところで書かれたよく知られている文なのだけれど、ここでは、「時代」が意味をもたないようなリゾームとしての<解体>美学をかんがえることができる。美学は、近代を脱構築的に批判するために、500年間にわたる芸術理論の歴史を、言説の空間として新しく配置する。ここから、多様性としての絶対自由の意味をどうしても問わざるを得なくなってきた。自由の思想は21世紀にはいって文化多元主義の方向から政治多元主義の方向へシフトしている。

「それはn次元から成る直線的多数多様体、主体も客体もなく、地盤面上に平らに拡げられ得、そこからはつねに〈一〉が引かれている(nマイナス1)多数多様体を形成する。」「地図は開かれたものであり、そのあらゆる次元において接続可能なもの、分解組み立て可能、裏返し可能なものであり、絶えず変更の受付可能なものである。それは引き裂かれ、裏返され得、あらゆる性質のモンタージュに適応し得、一個人、一グループ、一社会集団によって企てられ得る」(D&G)



時代に背を向けて自由に喋らせてくれ。問題は、「いかに」にある。否定によって、主体と客体、観念と実在の間の距離を保つカントを呼び出そうか?それで決められた方向づけを以って遡るのか。否、ただ視点が時々スローモーションで戻るだけだ。現在この時代が裏返し可能なものであることを肯定的に示すために。



漢文

漢文の読みというのは、スローモーションで、漢字が真珠の玉たちのようにおちて地にばらばらに散在していく方向と、それとは逆に、散在していた玉たちが恰も天に向かうように飛び上がっていく方向の二つから成り立つ。前者は破裂したような玉と集まった顔が見える。後者は顔は破裂するが玉たちが集まっている。

21世紀の漢字廃止論はなぜ、理性の私的使用にNo!と言えないのか?

‪21世紀の漢字廃止論はなぜ、理性の私的使用にNo!と言えないのか?


漢字を読むとき色々考えなければならないという、それが効率がよくないという。恐らく出版社の行き過ぎの宣伝だろうけれど、そうして漢字が日本語を滅ぼすというだけの根拠で、漢字廃止をいうのはどうなんだろうかね。発想の大転換が必要だ。漢字もまた、苦労してそれを読んでいる人間の過去のこと、また未来のことを一生懸命考えているのである。‬たとえば、漢字書き下し文で考えられた思想として注目したいのは、明治維新の近代を批判した思想が幕末にあらわれてきたことだ。人間の本質的平等観に立って、国は一国知に陥ることなく、自ら学ぶことによって、万国の智に向かって拡充しなければならないという。漢字廃止論の問題は、このように漢字書き下し文で考えられた思想をもっていないから、明治維新の近代を批判的に相対化する視点が成り立つことがない。朱子学脱構築していった17世紀の漢字書き下し文で考えられた思想は、カントと同時代的に、形而上学存在論を否定して、人間の有限性から考えたと指摘される。17世紀が問題になってきたのは、理性の私的使用についてである。今日の文脈においてみると、なんでもかんでもカネがものをいうように、公の中心にいる「安倍さんに靖国に行かせてあげなさい」と語るのが理性の私的使用である。だけれどそこでは、人はやっていけなくなるとする道徳性が成立するのは、ほかならない、人間の有限性においてである。21世紀の漢字廃止論は、植民地時代の近代を批判するようなことを言っているが、漢字とともに漢字書き下し文で考えられた思想を棄ててしまったら、明治維新の近代に依存するしかないではないか。

ポスト・オリエンタリズム

明治維新王政復古150年」にたいしては、漢字書き下し文で考えらえた思想が忘却されてきたのではないかという問題がある。国内亡命の場所がどこにあるのかを問うことは、知識人の漢字書き下し文で考えらえた思想をもつことがなければ、成り立つことはないとおもう。<近く>にある思想から、存在しないものが存在しているかを時代に逆らって問うこと。だけれどグローバリズムの近代というか、外国語を直に読むことに真実性を見出す文献学プロの言説の近代は、漢字書き下し文の不在がもたらす「人びとの視座の限界」をみようとはしない。この点についてハミッド・ダバシから学ぶことはおおいとおもっている。

「私は、亡命(エグザイル)が解放の必要条件であると確信している。亡命、すなわち、異郷にいる(ノット・アット・ホーム)のにくつろいでいる(アット・ホーム)ことは、人びとの視座の限界を広げる。その限界というのは、地理、道徳、想像力すべてにわたるものだが、亡命はそれを押し開くのだ。この限界線の上で、私たちは自分自身がこれまで知らなかったものになることができる」(ハミッド・ダバシ)