元号について

‪見えないものを名付けることに関心がある。時間を名付けることは、共同体にとって、どんな意味があるのか。ウィキによると、中国の元号は、中国王朝の冊封を受けた朝鮮、南詔渤海琉球などでもそのまま使われた(南詔渤海は独自の元号も使用した)。現在までずっと元号を使っているのは日本だけのようだ。『書経』や『易経』の漢籍古典を典拠にして採用するようになった日本の場合、一番多く使われた文字は「永」で29回、二番目は「天」「元」のそれぞれ27回、4番目は「治」で21回という。近代国家にとって元号は(国家の後に登場した)民族概念のための文化的再構成としてあると考えられるのではないか。そうならば近代の発明物である元号は伝統とは無関係である。その証拠に、「元号の出典は日本で書かれた書物がいい」と安倍が言ったというではないか。そんな近代の発明物の使用の強制は時代遅れである。伝統でないものはやめることができるしもうやめたらいいと考えているところに、勝手に「安久」が有力候補とされていることに迷惑に感じ不快に思うのは多分この私だけではないだろう

言説Brexitを読み解く

ヨーロッパといえば仏と独と英を考えれば十分で他国を考えなくてもいいとする見方はもうないだろうが、まだ英国に関しては、北アイルランドスコットランドウエールズを無視しても構わぬとする見方があるようだ。イギリスの普通の人々はBrexitを支持しているのは反エリート主義によるという。しかし誰が普通の人々なのか?北アイルランドスコットランドの普通の人々がBrexitに反対しているのは反エリート主義による。結局どこからBrexitを読むかである。特に北アイルランドは1990年代に英国-南北アイルランド三者が制作した和平協定の実質を保つために、保守党no deal派の危険なBrexitのあり方に反対している。

『言葉と物』

‪『言葉と物』のフーコの文は「17世紀的」だといわれる。多分同じ意味で、「バロック的」ということも言われる。これはアカデミーの専門知のヨーロッパ原理主義者でなければ完全に理解できないような言葉である。「17世紀的」とは何か?「バロック的」とは?その意味は独学者であるわたしのような者には一生かかってもちかづけない高みにある。そこで翻訳者の渡辺一民氏の言葉を思い返して、考えるヒントをさがしてみようか。彼は他の学者と違う読み方をするという。巻頭のベラスケスの絵を常に思い浮かべながら読むのである。またこういうことも言っていた。フーコのどの文も曖昧であるけれど、それらによって構成されている本に明確な全体性が見事に成り立っているんだよねと驚嘆していた。そのときは「バロック」という言葉を言っていなかったが、成る程、絵画史でいわれるバロック的なもの特徴は、部分が曖昧であるが、全体として明確なイメージをもっている。バロックの代表選手であるカラバッチョの絵を例にとると、部分の不定形なイメージは、全体のなかではじめて意味が明らかになる。(「帯」が描かれていたことがわかる。)ダブリンで8年間見つづけて意味を捉えることができなかったカラバッチョの作品(「キリストの逮捕」)も、発想の大転換が必要だったのだな。部分であるわれわれのもっとも近くにあるのは全体である。そんな全体は他者である神ぐらいしかいないという理念をあの絵はあらわしているのかもしれない。と、最初の問題関心に戻る。『言葉と物』に、部分における卑近なものに至上なものがあるというアイロニーの精神を読めるか?それを「17世紀的」「バロック的」とよんでいいのかもわからない。「17世紀的」「バロック的」というのでなければ、映画的というかな、敬っている遠くからやってくる、解釈し尽くせない映像の反復にとらわれる外部の思考が存在すること。いや、本当にそういうことなのだろうか、と、フーコを読んでみようかなという気持ちになっている。

フーコは<もう一つの思想史>を書きはじめるために、<もう一つの絵画史>を書いた書き方が野心的です。ベラスケスが呼び出されました。(このあと、絵画史のなかで言及されることがない博物学のイメージです。) さて8年間いたアイルランドのような19世紀から対英闘争を展開した共和国のメインストリームの芸術がこの絵から影響を受けていることを公然と言っているのが疑問におもったものです。この絵はヴィクトリア朝大英帝国の自己イメージのあり方を与えることになりました。フェースブックのスイス人の友達などは人々の隷属状態を読み解いて、「馬鹿な連中だ」と吐き捨てました。それはわかります。結局どこから絵を解釈するかによるでしょう。再びアイルランドですが、王から独立するためにというのですかね、この部屋からいかに脱出するかという問題意識を以ってこの絵を観るのかもしれません。宇宙の秩序を震撼させる不条理の笑いをゆるさないほどに、完全な原理を以って隙間を埋め尽くすようでは外へ出ることは難しいと絵は教えているように思います。下の絵はピカソによる再構成で、見事に、宇宙の秩序を震撼させる空白としての不条理の笑いを取り戻しているのではないでしょうか。しかしこれとは反対の見方をしている可能性もあります。国家がなければ民族のアイデンティティの確立がないという見方です。その場合は画家の二つの位置に、民衆が民衆自身をみるということになります。しかしアイデンティティといっても境界というかかえって揺れて止まらないものを感じないわけにはいきません。そもそも民族とは何か?「明治維新の近代」に先行する津田左右吉・国民思想論(第一回、「民族」という始まり)のプリントをみながら色々思い返しているところです。冒頭の文はエテイエンヌ・バリバール「国民形態の創出」(1995)でした。「民族ピープルとは、あらかじめ国家機構のなかに存在し、この国家を他の諸国家との対立関係において「自分のもの」として認知するような、そのように想像の共同体である。」問題は、21世紀の新しい普遍主義を再構成できずに、「国家」が制作した「民族」(=「世界史」)を物語る言説の部屋を出ることができないでいること。東西の500年前から、ここが問われているとおもいます。

ラス・メニーナス』はピカソによって再構成されている。幾つもの作品がある。ピカソは仮面に大きな関心をもっていて、『ラス・メニーナス』は仮面だったのではないかとする説があるほどだ。ポスト構造主義的に、何とかポストコロニアリズム的な視点で書くと、‪そうだと考えると、仮面『ラス・メニーナス』についてどんなことが言えるだろうか?画布の裏はその表を隠す。これと同様に、仮面『ラス・メニーナス』は王が消滅した後の自己の顔を隠していると解釈してみよう。そして絵画のなかのベラスケスは「文字で描く画家」であり、画布の裏は書かれたテクストの裏に対応するとき、仮面がわれわれの視界から妨げているのは、奥のほうでテクスト全体を宙吊りにしている空白と、テクストのどこにも属するがテクストの表の部分とならない裏である。結局、仮面は、裏と白紙のような空白を隠蔽しているといえるのではないか。仮面は声のエクリチュールである‬。仮面は外部から受ける損傷に対して、共同体が住処とする身体をまもっている。

avoiding eye contact ‪『ラス・メニーナス』 に描くー見ることの自律性(本来性)を強調する見方は、視線に晒されている眼差しーイヌ、王女、道化、侍女、画家ーが互いに似ている類似性のネットワークが気にならない。王と画家と私達の視線に晒されたモデル達はバラバラの方向を見ていただろう。中世的世界像の終わりを告げているかもしれないが、近代が期待するようには、そこに合致する共通の場がはじまったとは思われない‬

柄谷行人『世界史の実験』の感想文

柄谷行人『世界史の実験』(岩波新書)は彼の交換様式論を使って、言説<平田篤胤柳田国男>の線から言説<狼人間ーノマド山人>に線を引く。面白く読みはじめたが、読み終わってみると、われわれが逃げ出したい<一国民族学>の顔の多様性を殺戮する教説<村人>ブラックホールの近代に包摂されてしまっていないだろうか?『世界史の実験』に反グローバル資本主義の新しい言説の成立をみとめることはできるが、もしそこに国家神道安全神話化をまったく問題にすることがなければ、帝国の構造に収斂した言説<世界史>の後の思考実験も明治維新の近代への民衆的ユートピア的内面化なのかと思わざるを得ない。

ヌーヴォ・ロマンをたたえる

https://twitter.com/waynbrunsdon/status/1097537344507387910?s=21

ヌーヴォ・ロマンをたたえる

主体は銅像の如く立つためには物の媒介を必要とするのですが、物の内部に深い疎外があります。文学はそこに人生を物語りますが、映画は空白としてのXを埋め尽くすことを拒否します。精神に語るべき人生が無いように、映画に語るべき人生は存在しません。精神が生きる、映画が生きる、これに尽きます。

以下、アランレネ『去年マリエンバードで』(1961)より。劇中劇での女と男の対話 永久に固まって過去となる、あの大理石のように。石につらぬかれたこの庭園、あれ以来無人のこのホテル、あの動かず語らず死んだ人々も、ずっと以前から、廊下の隅でまだ見張っている。‬ ‪その中を私はあなたに会いに来た、相変わらず注意深く冷淡な、あの不動の顔の垣の間を通って。そのあなたはまだためらっている、庭園の入り口を見つめながら。さあ、もう私はあなたのものです‬

‪pour toujours ‬ ‪dans un passé de marbre‬ ‪comme ces statues‬ ‪ce jardin taillé dans la pierre‬ ‪cet hôtel lui-même‬ ‪avec ses salles désormais désertes‬ ‪ses personages immobiles, muets ‬ ‪morts depuis longtemps sans doute qui montent encore la garde à l’angle des couloirs ‬ ‪à travers lesquels je m’avançais à votre rencontre ‬ ‪entre deux haies de visages immobiles ‬ ‪figés, attentifs, indifférents depuis toujours ‬ ‪vers vous qui hésitez encore ‬ ‪peut-être regardant toujours le seuil de ce jardin ‬ voilà maintenant je suis à vous‬

言説『日本人』について

「帰国子女」の特権は、「みんなと一緒に」と親や先生に叱られるとき、それは日本人のことなのかとストレートに反論できること。この後、「日本人という言い方をやめなさい」と叱られるのだけれど。「『みんな』は『日本人』とは言わないのですからね」と続く。問題は、だれが最初に、『日本人』と言ったかである。ヨーロッパを仰ぐこの親でもなければ先生でもない。17世紀の近代の時代に、ヨーロッパ人が始めて言ったのである。そうであるとしたら、『日本人』と言っている以上、ヨーロッパ中心主義のオイデプスに囚われていると言わざるを得ない。言説『日本人』から自立するためには、それが指示されているものがいかに破綻しているかを考えてみよう。『日本人』の150年間がいかに失敗していたかを知るためには、150年前に確立した直線的な物の見方のなかでそれとは異なる500年ぐらいの幅のある視点を地下茎を通じてもつ必要があるのではないか。地下茎は多分漢文と漢字書き下し文にある。足元を掘ってみよう、自明としている思考の土台を。

近代、脱近代、ポストコロニアル

‪近代、脱近代、ポストコロニアル

‪近代、脱近代、ポストコロニアル 普遍主義に反撥する浪漫主義的文学の近代は、絵画の近代と同じように、資本主義からの独立を目指すという近代である。文学は文学のほかに立つことはない。世界からの独立は前衛精神の抵抗に極まる。文学は、資本主義の外部性を空無化することによって、資本主義の偶然性からの克服を一層わがものにする。問題は、ファシズムも空無化していくようにみえるときである。その危険に対して、マルクス主義文学批評の近代は、前衛的実験にたいして、全体性のリアリティの疎外を指示する。ポストモダン文学からみると、そんな疎外の回復を指示する近代は全体化の言説である。ポストモダンは資本主義的な断片を以て近代的なものに抵抗したところで、近代はポストモダン断片化を資本主義の擁護として告発しなければならない。ポストコロニアルがやってくる。ポストコロニアルは多様な言説であるが、文学は植民地主義が創り出した近代と近代文学の勝利の前に自らをゼロに感じる。そしてテクスト的脱近代に知的に触発されながら最終的に脱近代は共同体の声を無意味化するものとしてこれを受け入れることができないだろう。帝国の時代の文学は勉強不足でまだよくわかっていない。 (帝国の時代はもしわたしならこんな文学を書く。歴史の必然を見渡す知が”命懸けの飛躍?“的落下のあと、世界-内-存在の偶然しかない街に徘徊したが、帝国時代は、知が再び塔ー歴史の必然を見渡す世界史の構造の高みーに帰って行く時代である。見捨てられて地上界に取り残された存在が、魂によって観察されながら、卑近なものと至上なものを見る。見る行為が先行する。)