フーコ『言葉と物』を読む

フーコ『言葉と物』のどの章が一番大事ですかときいたとき渡辺一民氏は「最初と最後」が大切だと語ってくれた。その「最初」は「序文」のことだったのだけれど、わたしは「第一章 侍女たち」のことだと長い間勘違いしていたことにひどく呆れた。「あんなものは訳せないことはないんだ。」と。あのときは何も言えないままに黙っているしかなかったが、今なら少し何かを言えた。「第一章 侍女たち」は絵を解説している文ではない。画家をあたかも文字で描く画家の如くロゴスとしてとらえている変な文なのだ。ロゴスはトータルに自らのあり方を説明するときどうしても言葉を必要とする。これがわからないのである。‬

‪「画家は絵から心もちさがったところにいる。モデルに一瞥をあたえているところだ。あるいは、仕上げの筆を加えようとしているのかもしれない。だがもしかすると、最初のひと筆がまだおろされていないのかもしれない。画筆をもつ腕は、パレットの方向、左にまげられている。いま彼は、画布と絵とのあいだで身動きもしない。その馴れた手は視線み吊られ、視線は逆に、静止した動作にささえられている。画筆の鋭い先はとはがねのような視線とのあいだでは、光景がその立体的空間を解き放とうとしている。」(フーコ『言葉と物』第一章 侍女たち、渡辺一民訳)‬f:id:owlcato:20190507130959j:plain

ゴダールの『映画史』(Histoire(s) du cinéma)

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ゴダールの映画『イメージ・ブック』の前半は、ゴダールの『映画史』(Histoire(s) du cinéma)を発展させたもので成り立っているから、『映画史』をしっかり見て欲しいと願うものである。『映画史』は、1988年 - 1998年の間に断続的に製作および発表され1998年に完成した、ビデオ映画シリーズである。『映画史』とはラングロワとトリフォーへのオマージュであると言っていい。『映画史』はいかに目に見えないものを目に見えるものと関係づけるかという言説的構成をもっている。ラングロワとトリフォーの魂の気とは、それが散じ尽くす前に時間があるから、コミュニケーションをとることができると考えてみるのである。それによってどういうことが言えるか?『映画史』を形作っているのは、天地の間、すなわち目に見えないラングロワとトリフォーとゴダールの間に往来している感化の大きな運動である。『イメージ・ブック』では、目に見えない、ヨーロッパにとっての他者とのコミュニケーションのあり方が問われることになった。『イメージ・ブック』は、『映画史』のポール・ヴァレリーに言葉をひいた言葉を呼び出す。「かすかな声、おだやかな、か細い声で、大それた、重大な、驚くべきことが、深く、そして正しいことが語られる」と。この言葉に加えられる映像はただ一つである。映像はイスラムの女性とおもわれる人間の身振りとジェスチャーである。『イメージ・ブック』と『映画史』のナレーションは反時代的精神が吃る形而上学的ロゴスである。はじめにロゴスありき。垂直的に、ロゴスは感化の運動の上に泊まっている。ロゴスは言語的存在が自身が存在する宇宙論的な意味を問う。ロゴスは時間に先行する論理である。時間のイメージに先行する思考のイメージである。天との関係において世界に存在する諸々のものは水平的全体性(平等性)である。 ‪

ヴェンダース『ベルリン・天使の詩 』

渋谷に来て、ヴェンダースベルリン・天使の詩 』を30年ぶりにみた。「天使達は地上の人々の心の声に耳を傾け、人間世界の物語や歴史を見守り続けてきた」。映画はどんな世も語り部を必要とすると物語る真理も含めて、壁(=真理)の崩壊の意味を語る言説がひとつではないポストモダンの時代に生きる意味を考え続ける

フィリップ・ガレル監督の『ギターはもう聞こえない』(1991年)

昨日は、恵比寿の東京都写真美術館フィリップ・ガレル監督の『ギターはもう聞こえない』(1991年)をみた。

昨日恵比寿でみたガレル監督の映画は、ヌーヴェルヴァーグの影響を受けた八十年代的な作品である。前半はヒッピーたちが集まったイビサ島で撮影された。映画にこんなセリフがあった。「人生に約立つ言葉を本の中から引用してみても無駄だ。人生は本の中にあるのだから。」両腕を広げていれば、何でも自分のものにすることができたと考えていたのは間違いだった。卑近な生活に奪われないように、本の中にある至上なものをしっかりと抱きしめていなければならないものなのだという。成る程そうかもしれない。ヌーヴェルヴァーグを確立したゴダールの映画は本というものを抱きしめている。『イメージの本』という名の映画も作ってしまったほどである。ところでもし近代主義はこの理屈と同じように考えているとしたら?と考えてしまった。この場合それほど賛成できない理念化の方向だ。近代はヨーロッパの中にあるのだから、アジアにおいて、まさかヨーロッパ原理を拡充発展させるために、近代をヨーロッパから取り出してみようとしてもそれは無駄なことに違いないとどっかで考えているのではないだろうか。アジアはヨーロッパ原理を生かして卑近なところから至上なものに向かってトータルに考えることができるものなのではないか

共和主義

アイルランドに行けば強力な共和主義の理論がわかるはずだと思って行ったのですが、実際に生活してみると、日本人が好きな?国家哲学のような単純なものはありません。今日地球のマジョリティを為しますが、政治的独立を獲得したが経済的自立ができないでいる国々の国家論を考える必要がありました。ジェイムス・ジョイスの文学が証言しているように反帝国主義帝国主義の言説が同じになったりするという転倒もあります。今日の文脈で置き換えてみると、一生懸命デモクラシーとおもっていたのにそれとは正反対に全体主義的な方向に行っていたりするということがあるのです。しかし敢えて共和主義の精神にこだわってみると、ナショナリズムにからみとられることなく隣同士の卑近な所からトータルに考えることが共和主義の理念の根底にあることを学びました。‬帝国主義は、今日は帝国の時代ですけれど、構造的に、遠い所からトータルに考える無理があるのですね

憲法記念日とはなにか?

憲法記念日とはなにか?憲法記念日の今日は、敗戦のときに軍国主義と国家祭祀をやめたことの誓いを思い出す日である、と同時に、だからこそ象徴天皇制の意味を考える日でもあります。じつは象徴天皇制は二度目?江戸幕府天皇の京都幽閉によって象徴天皇制と等価の状態が成立したとする見方があります。しかし明治維新のクーデターは文化権力の天皇に政治権力も与えてしまった結果、昭和十年代に戦争とファシズムが同じ方向に進むことになったのです。この反省から、象徴の責任を果たすとは、政治性を超えない象徴性を保つことにあります。ほかにありません。

ゴダールの映画『イメージの本』の感想

イメージの本に先行しているのは、本のイメージ、すなわち映画を思考手段とする思考のイメージである。それは自己の周りにあるものー卑近なものーを示すことによって、自己自身を考える方法である。

トータルに考えることが不可能となっているのは、知識がないからかではない。自分を知らないからだ。遠いところからトータルに考えることによって、外部にある過去との関係を考えられなくなったことによる。隣どうしの卑近なところから過去を考えれば、普遍(理念)として確立した物の見方ではやっていけなくなってきたときそれとは異なる見方があったことがわかる。質問することによって、普遍(理念)はたえず再構成され得る。倫理的に一つに非ず。

ドウルーズはいう。「ゴダールはうまいことを言っています。『正しい映像ではなく、ただの映像さ。』哲学者もこんなふうに言いきるべきだし、それだけの覚悟をもってしかるべきでしょう。『正しい理念ではなく、ただの理念さ』とね。」(『記号と事件』)

1980年代のゴダールはトータルに考えるために外部にある過去との関係ースイスの故郷との関係ーを知る必要があった。

この方法から、ヨーロッパはトータルに考えるためには、外部にある過去との関係ーイスラムとの関係ーを知る必要があるだろう。たとえば、文字を発明したメソポタミア文明との関係がみえないので、現在アメリカが行なっているこの地域への侵略がどんな意味をもつのかをトータルに考えることができないでいるのかもしれない。アメリカは文字を侵略していると考えてみたら、どんなことが言えるか?新しい普遍を再構成しようとするわれわれの思考が依拠する言語と言われるものを支配するつもりではないだろうか?‪これが、‬‪トータルに考えるためには、外部にある過去との関係を考えることが大切であるということの意味である。‬

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