執筆中。(「方法としてのアジア」について)

整理できていない...



夏目漱石から竹内好を読む、あるいはその逆。


「わたしは夏目漱石のよい読者とはいえないが、読んでいて面白いときは「西欧」を考えている文である。漢字漢文の高さはある。だが漱石は、明治維新の一国主義は前近代を失敗しているという反時代的な読み方をしているか?正直わからなくなった。日本人としてヨーロッパをどう読むかを帝国の大学の知が教えてくるときが問題である。近代西欧がいかに完全であるかを示すために正してくるとき身をかわさなければならぬと感じる。だが本気か?ヨーロッパとアジアの間にたつ距離としての不完全性にこそ意味があると思いながら書いていると漱石に期待したいのであるが、柄谷が言うようには...。「西欧」と表象されるものを読むことは、その言葉の意味を探しにてできるだけ遠くに行かなければならない。遠くであればあるほど真実性が増すように思われてくる。何故か?おおまかなことしか言えないが、われわれの思考が、言語学の起源の思考をもつ近代において成り立ったことと無関係ではないだろう。起源というのは遠くから己れの内部の中心へくるのである。「西欧」を探しに行くつもりが、「西欧」から線をひく帝国主義の共感者となっているということが起きるが、漱石は共感者ではなかったならば、帝国日本の読者にあれほど読まれたかどうか?帝国主義の近代の見方を批判的に相対化するために、<方法としてのアジア>に向けての物の見方の重要性がいわれる。一元主義的存在論<アジア主義-内-存在>の言説のユートピアから、多元主義存在論<思想史-外-存在>の言説の混在郷エテロトピーへ、とメモを残しておこうか。」

フーコはいかに「言説」を語ったか

‪フーコはいかに「言説」を語ったか(No.1)‬


‪16世紀の言語(ランガージュ)は、自己にたいして、たえざる注釈という立場をとっていた。ところでこの注釈は、何らかの言語(ランガージュ)がそこにあるー何らかの言語(ランガージュ)が、それを語らせようとして用いられる言説(ディスクール)に先だって沈黙のうちに実在するーという条件ではじめておこなわれるものにほかならない。注釈を加えるにはテクストの絶対的先在が必要なのだ。逆にまた、世界が標識ち語とのからみあいだとすれば、注釈という形態をとらずにどうしてそれについて語れるだろうか?ところが古典主義時代以降、言語(ランガージュ)は、表象の内部、表象のなかに空洞を設ける表象それ自体の二重化のうちに展開される。爾後、第一義的<テクスト>は消滅し、それとともに、自らの無言の存在(エートル)を物のなかに刻みつけていた語の尽きることのない基盤全体も消滅する。表象だけが残り、それを顕現する言語記号(シーニュ・ヴェルベル)のなかにくりひろげられ、そのことによって<言説>(ディスクール)となるのである。‬

‪ー 『言葉と物』第四章 語ること‬

2019年の選挙

これから投票所へ。社民党の存続が気になっている。立憲民主党日本共産党山本太郎?女性の政治家の数も大切な判断材料。安倍政権は「安定か混迷か」と訴えるけれど、有効需要の不足による不均衡なまま安定していることが問題。それでも安倍はアメリカしかない。米国のネオリベを再検討するつもりがない。そして安倍応援団の日本会議は日本しかない。ナショナリズムがすべてである。わたしの考えは、揺れ動くこと自体はわるいことではない。たとえ「混迷」しても、権利のある社会を求めて分裂したらいいじゃないかとおもう。「安定」していけばいくほど権利のない社会になっているんじゃないの?そしてこの時代、香港と台湾、韓国は、外側から、日本の選挙をどうみるかという話をもっとききたい。

「方法としてのアジア」

ネオリベの言説「敵と競い合う世界」ー向こうからきた人はこちらに最悪の攻撃をしてくるからそれを想定して報いる必要があるーに対しては、それが拠るゲーム理論パレート最適的前提が社会民主主義的見方から再検討されました。また共同体を重視する倫理的な考え方からする反論もあります。ほかに、21世紀は、「方法としてのアジア」を導入せよとわたしは言いたいのです。それは、日本にだけでなく、グローバル資本主義の分割であるネオリベの中国にもアメリカにも要請されるものではないかと考えてみたらどういうことが言えるかですね。死に場所がないだけでなく生きる場所もどんどん奪われていくならば、人びとが自由に移動していくことができる新しい普遍主義のこともいっしょに考えています

漢字論

‪漢字は他の文化を盗む為に必要だったと考えてみる。盗んだ痕跡は残る。寧ろ神話に他の声が介入してくるように漢字で盗まなければならなかった。ナショナリストが漢字に依拠できるオリジナリティーがないと嘆くときは、映画を観て「英国の空は美しい」と言う人と似ている。色の美しさはフィルム感度が作るのに‬。映画館で見ていたのだから、投射の働き(思考方法)を考えなければいいのであって、そうではなくて、英国の空(思考実体)をたたえるのはなんと愚かだろうか。‪漢字とそれを自分のものとしてもとうとして読む仮名で構成されるエクリチュールこそが投射ではないか。



‪西欧近代しかないとする支配的見方はどこで成り立つのだろうか?それはアジアは独自の言語学がないとするヨーロッパの言説をアジアが受け入れることによっても成り立つ。サイードが指摘したように、支配的見方のなかでそれと異なる見方をするためにはアジア人達が行った言語の分析を学んで、それが文化論的にどういう展開をもったかを知ること。例えば漢字論の言説のリゾーム的運動をアジア主義(竹内)とともに理念的に考えていく必要があるのではないか‬と思う。先週の講座で子安先生は9月以降の予定を話されたとき、津田左右吉が漢字をネガティヴにみていたがそれについてもかんがえたいという。‪



漢字論の言説のイメージは自らの内部におけるものにみいだせるかどうか?そのイメージが、コピー(漢字は借り物である)とかオリジナル(漢字は起源がある)とかいう言説の中からその内部に向かっていくとき、こだわりを以って内部が思考実体(「国語)となってしまうところで、イメージは「不可避の他者」がみる外部の視点-思考方法-を失なう危険あり

MEMO

今日の講座(子安宣邦氏)では大変興味深い宇宙生成論における始まりのことが説明された。朱子が語る太極の無という始まりは理でなければならない。本居宣長は始まりははっきりとしないという。平田篤胤は救済論的に正しい始まりを考えた。破綻した後に、補いあう見えぬ世界と見える世界をはじめて考えていく。朱子から600年後に、他から独立している一つのはっきりとしたイメージは役に立たなくなったというわけか。明治維新平田篤胤を継承できなかった。



子安宣邦氏の講座((朱子語類』を読む)‬で、中国哲学研究者のために中国版『朱子語類』のプリントを配っていただいた(左手)。子安先生が使っているのは、17世紀の江戸時代の学者たちが注釈をつけた『朱子語類』(漢文訓読のための返り点であるレ点がうってある)である(右手)。先生のご説明では、1000年前のテクストを読むことの困難さを考えなければならないという。オリエンタル学(フランス支那学)の現代中国語を以って読むよみ方よりも、(朱子の時代により近い)江戸時代に読んだ読み方の方が信頼できるのである。昨日は、『朱子語類』巻三 「鬼神」の3からの文を読んだ。‬


‪「天地の塞は、吾がその体、天地の帥は、吾がその性」(張横渠)。‬

‪カントの実践理性のことばを喚起する張横渠の言葉を子安先生は次のように訳された。「天地がかく在る身体性(存在性)は、わがこの一箇の身体性であり、天地がかく在る理念性(主宰性)は、わがこの心の理念性である」。子安先生のコメント「これは私が覚醒ともいった天地的存在としての我の透察のぎりぎりの言語的表現ではないか。」‬


‪この言葉を読んだときは感動した。ヒンデミットの葬送音楽「ビオラソナタ」の調べを思い出していた...


朱子語類』の鬼神論の言葉、「天地の塞は、吾がその体、天地の帥は、吾がその性」を読む。映画の死と共にヒンデミットの音楽が通る。「世界は矛盾に耐えることができないのであり、まさにそのために生成と消滅とに委ねられている」「精神こそは矛盾に耐え得るほどに強いものである」(ヘーゲル『大論理学』)


ハンナ・アーレントは亡命中に私はドイツ語を喋るがドイツ人である必然はないと語ったという。問題は、日本語を喋るが日本人でなければならないのか?近代は、前近代である日本人に対する永久革命を行うことによってこの問題を解決できると考えているようが、ほんとうに前近代をゼロしてしまっていいの?‪大切な思想形成もあったのだし。‬近代の「真」の始まりとされる始まりも恣意的である。また革命である以上、権力をとる支配者が変わるだけではないだろうか。それよりは国内でもいいから-その場所がわからないが- 亡命した方がいいし、及び腰だがその外部から何とか逆らってやりたいとかんがえるのだけれどね


「問う、鬼神は便ち是れ精神魂魄なるや、如何。」

「然り。」

「では、精神(Spirit、Geist)のヨーロッパ的伝統における生気論的概念はいつ、思弁的概念として世界精神となっていくのか?」

「やはり、ヘーゲルの理念性をものとして再構成した法哲学がそこから弁証法的に展開する市民法(所有権)の言説からではないか。生気論的概念は痕跡として残る?」


‪究極的なもの(原理)は円で囲む形でイメージ化すると破綻しちゃうのは何故か?直観的に言うと、円は自身に投射するとき、無限定に広がる可能性がある。なにかそれは何もかも見せようとするハリウッド映画の失敗と同じで、結局人々はそこになにも見ることができないのとおなじである。(平田篤胤の破綻もこういうことではなかったか。) だから円の投射は有限的におさまるという感じが必要である。円は近傍をもっていなければならない。だがそれは「働き」である。究極的なもの(原理)のイメージを「働き」のイメージによって媒介することはできない。「働き」の根拠を為すものを究極的なもの(原理)rとして示そうとしているのだから。そうして、他から独立している一つのはっきりとしたイメージは役に立たなくなってくる。ここから、他から独立してはいない曖昧なイメージが意味をもつことなってくる。これが私の考えである



「21世紀の現代における「方法としてのアジア」とは、人間の生存条件を全球的(グローバル)に破壊しながら、己れの文明への一元的同化を開発と戦争とによって進めていく現代世界の覇権的文明とそのシステムに、アジアから否(ノン)を持続的に突きつけ、その革新への意志をもち続けることである」‬

‪ー 子安宣邦『「近代の超克』とは何か」(2008)‬


土曜日は竹内『近代の超克』論を考えた。アジアへの共感なき安倍は西欧近代しかみない。安倍応援団をなす日本会議歴史修正主義は日本しかない。日中国交回復を実現した田中角栄社会党に存在したような、対抗軸としてのアジア主義が消滅してしまったというお話を子安先生からきいた。帝国主義をもたらした近代を乗り越えていく方向を以って理念的自立性を構成できないこと、それを実現する条件が不在であることが現在の問題である‬とされる

‪‪パリは「マクロンはどうなんだ」という批判が隣のお喋りからよくきこえてきたけど、東京にくると、改めて気がつく。日常生活で景気と健康の話題は出るが、昨日食事会のときに話題に出たことだが、隣人に「安倍はだめだね」という話をする隙間もない。この言語化できない禁止を言語化しなければヤバイという危機感すらないか‬パリは「マクロンはどうなんだ」という批判が隣のお喋りからよくきこえてきたけど、東京にくると、改めて気がつく。日常生活で景気と健康の話題は出るが、昨日食事会のときに話題に出たことだが、隣人に「安倍はだめだね」という話をする隙間もない。この言語化できない禁止を言語化しなければヤバイという危機感すらないか‬

‪Nietzsche se doutait bien que lécrivain ne serait jamais debout; que l’écriture est d’abord et à jamais quelque chose sur quoi l’on se penche. Mieux encore quand les lettres ne sont plus des chiffres de feu dans le ciel .‬ ‪ー Jacques Derrida L’écriture et la différence. ‬ ‪ニーチェは、作家が立っていることは絶対にないだろうことに、すなわち、書くこととは、そもそもの初めから、永久に、人がその上にかがみこむ何かなのだということに、はっきりと気づいたのだ。そして、文字がもはや空中ののろしではないときには、いっそうそうであることに。(デリダ『差異とエクリチュール法政大学出版局)‬

‪...Artaud a voulu interdire que sa parole loin de son corps lui fût soufflée.‬ ‪Soufflée: entendons dérobée par un commentateur possible qui la reconnaîtrait pour ranger dans un ordre, ordre de la vérité essentielle ou d’une structure réel , psychologique ou autre.‬ ‪Soufflée: entendons du même coup inspiré depuis une autre voix, lisant elle-même un texte plus vieux que la poème de mon corps, que le théâtre de mon geste.‬

「恋愛恐怖病」は、昔、松下さんが演出なさったものを観ました。興味深く観劇しました。観客席の後ろにいた代表の入江さんと(岸田の研究がある)渡辺先生がともに、岸田のこの芝居はいかにも鎌倉的というか上流のブルジョワ的雰囲気だねというような褒めつつやや突き放したようにも受け取れる感想を述べておられました。わたしははっきりとその意味がよくわからなかったのですが、とくに質問もしませんでした。いま思い返すと、非政治的に、一人のなかの関係の多様性が呈示されているというようなことをご指摘なさっていたのだろうかとおもっています。渡辺先生のお考えでは、劇団というのは、一人の主観ではどうにもならないという意味で、非ブルジョワ的なところなんだそうです。そうすると、劇団という政治的な場で、「舞台は関係がある」ということ。いや、「舞台は関係である」と表現すべきなんですかね。「関係がある」の「がある」と「関係である」の「である」とは同じかな???前者はどちらかというと一人の主観ではどうにもならない関係の客観性で、後者はその関係をなんとか自己のなかで構成しようとする主観性?客観性から主観性への移行?日本語はその境界が曖昧。関係の冒険という一人の主観ではどうにもならない政治の事件性は終わっているが、思想としては終わっていないということについて考える今日この頃です。

‪Non sum uni angulo natus, patria mea totus hic mundus est. Seneca, Epistulae Morales ad Lucilium, XXVIII, 5. ‬ ‪わたしはこの片隅だけに生まれたのではない。この世界の全体がわたしの祖国だ。‬ ‪セネカ『倫理書簡集』‬ ‪


ブーメランの鬼神論

オーストラリアではブーメランは野生動物に向けて飛ばしますが、子供時代に東京にきた私はシドニーのお土産屋さんで買ってもらった大ブーメランを国家公務員の公団住宅のコンクリート壁に向けて投げていました。だけど親といた公団住宅は野生化せず、二つに折れたブーメランも大地に葬られることなく母親によって勝手に産業ゴミとして捨てられました。しかしブーメランというものをはじめて見た近所の超ガリ勉の子供は衝撃を受けて勉強をやめてしまって肖像画を描く芸術家の道に進んだみたいです

中国語は、何世紀にもわたって、朝鮮語、日本語、アンナン語の語彙に洪水のように入っていったが、お返しに何ひとつ受けとっていない。ーエドワード・サピア『言語』

脚の痛みに水の中を歩くといいらしい。今朝は就学前の大勢の子供たちでプールが遊園地化していた。中には私みたいにナイーブな子どもいて、シャワー室でスタッフのお姉さんに世話されている。

「名前はなに?」

「...」

「ママになんて呼ばれてるの?」

「そのママってのは、オフィーリアのこと?」

(変な子供だわ)



可視的なものはー内部における構築された表象ーは、言説的なものー自己同一化の言説に絡み取られる。「方法としての自然光」が自己同一化の言説を解体していくという。スタジオの外の自然光への依拠はゴダールの「外部の思考」を構成する。他者の領域において可視的なものと言説的なものとは独立している


思想の歴史に「方法としてのアジア」がある。映画の歴史に「方法としての自然光」がある。思想史も映画史も「外部の思考」が要請されるのである

‪西欧は60年代の近代批判の新しい思想に先行してスターリズム批判が存在した。「独ソ不可侵条約」でナチスと手を結んだスターリズムだが、ハンガリー革命まで批判しなかったサルトルは批判された。アジアは、50年代に、「近代の超克」の竹内好によるマルクス主義アジア主義(例 平野義太郎)批判があった。



運命の力

ヴェルディのオペラ「運命の力」を観て思ったのは、登場人物達を突き動かしている名誉とか評判。あれは何だろうかと。私にとっての意味を考えるのですね。名誉と評判から生じる葛藤に惹かれることはないですが、しかし望む本をもっていないこと、これほど不名誉なことはないだろうということを、『気狂いピエロ』の島ポルクロールでウロウロウヨウヨ、ワイワイガヤガヤしたことによって気がつきました。説明を要しますが、『気狂いピエロ』の若者たちはこの島にやってきたときは映画は死んでしまいました。そして究極の本を書く詩人ランボーみたいに放浪したのですね。だけれど書くことができないでいます。気狂いピエロとは、ほかならない、映画のことです。表象<映画>ー表象の表象ーは本のかわりとなることによってしか蘇ることができないとはじめて語り出されていくのです。新しい言説ですね。再びヴェルディのオペラですが、ワグナーの大地のなかに吸収してしまうものを保っているように感じられます。名誉と評判が宇宙のリズムと連結している面白さがあります。そうして非帰属性のリズムに成るというか...。その点に関して、階級と身分なき大衆社会の電子化のことをちょっと考えています。かつて大衆からファシズムスターリニズムの全体化が生まれたとしたら、ネットの時代からは何が生まれてくるのかとおもいますが、その点についてそれほど悲観的ではありません。12世紀に極まる垂直的全体性(宇宙的無限の非差異的同一性)と17世紀から始まった水平的全体性(卑近の非同一的差異性)とが斜線において19世紀20世紀において存在しなかった多様性を観念化してみたいです、と、簡単にそう書きましたが、ま、わたしには無理でしょうけれど。最後に、非帰属性だけを拠り所することもできません。たえずヨーロッパのことを考えなければいけないとするアジアの距離の観念ですかね、自分がもちたいと願うのは。本当に願ってる?わかりませんが、その距離が住処とする島は一体どこにあるのでしょうか!?‬