MEMO

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他者が存在するという意識が構成するシンメトリーを失っているあり方を表現している作品だけに、全体に覆われずにいる部分と部分の間の僅かな空隙もない現実がみえてしまった。逃げ場が無い..

Que veut dire Levinas par < interstices> ?



‪‪三木清の「死に切った過去」も、フーコの「起源なき起源」も、<人間の経験>のなかでみることができなくなって、何とか再び新しく<言語の経験>のなかでみる必要のあるときから、外の思考といわれるものがはじまるのだろう‬か



まず第一に、エロティシズムは、人間の性欲が禁止によって制限されており、そしてエロティシズムの領域が、この禁止に対する違犯の領域であるという意味で、動物の性欲とは異なるものであります。エロティシズムの欲望は、禁止に打ち勝つ欲望なのです。それは人間を人間自身に対立させます。ーバタイユ


「ひとびとが貨幣を貨幣として受け入れることを拒否し、先を争って貨幣から遁走している状態である。それは、恐慌とは逆に、何らかの理由で、世の多くのひとびとが貨幣よりも商品を欲してしまうことによってひきおこされる。」


岩井克人氏は何を考えていたのだろうか。マルクス資本論』から、ネオリベの経済学でなくては説明できないハイパーインフレーションを、説明してみせた。岩井氏によって経済的不均衡論の言説が『資本論』を説明しはじめたのである。『資本論』を説明するとはなにか?ここで、「貨幣」「商品」をそれぞれ、「目に見えない神」「目に見える神」とおきかえてみると、言説における神学的な思弁がみえてくる。すると、これはなにを意味するのか?岩井氏はハイパーインフレーションだけでなく、ハイパーインフレーションの言説の問題を考えていたのではなかったか。現在ネオリベの問題はハイパーインフレーションを理解しても、彼らの思考がその内部に絡みとられているハイパーインフレーションの言説を批判的に相対化していないようにみえる。ネオリベの国家の計画するユートピアの単一視点に対する批判は、再び市場へのユートピアの単一視点ーピケティー的な政治の介入を許さないーにとってかわられたのである


日本古代史は中国文明史と呼ぶべきではないかという意見もあって、五経博士にちょっと関心がある。五経博士は、中国古代の官職の一つ。前漢時代、太常の属官に置かれた。儒家の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)を教学する学官であった(wiki

「私自身としては,桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」

(明仁天皇 2001年)


‪‪‪中国哲学インド哲学を勉強する学生が少ないと若い中国哲学の研究者から聞いた。と書くわたしもアジアの哲学をほとんど知らないでやってきた。ほんとうにそれでいいのかと思いながら彼の話を聞いた。インド哲学といえば、ダブリンの近所の哲学語学塾みたいな所で一カ月だけ勉強したときに手に入れたサンスクリット語で書かれた入門ウパニシャッドの解説本をもってかえってきている。サンスクリット語起源と推定されるゲール語がたくさんあることを知った。中国哲学の再構成はインド哲学との出会いによって起きたと考えられている。朱子学は東アジアを代表する哲学として確立した。朱子学は究極のもの=ロゴスを覚醒する存在論であるが、17世紀徳川日本の時代に天の思想に帰る古学派によって朱子哲学が脱構築されていった。その意味はなにか?これは京都から起きたアジアにおける知識革命を為すものであった。20世紀ポストモダン孔子という読みは翻訳を通じて、現在中国の関心を呼んでいる。21世紀の東京で行われた、17世紀の朱子語類鬼神論の読みは鬼神論を超える。鬼神論のディスクールはアジアからヘーゲルとフーコが発見されていくかのようである。ヘーゲル精神現象学』に言及する「人間の分身」(第9章)のなかの‘起源の後退’を読んで12世紀だけれど鬼神論の弟子たちの考え方について考えている。‘物で書かれたもの’を分析している「世界の散文」は成る程、「命名=制作」論か。子安宣邦氏のもとで朱子を読んできたが、これと平行して、市民大学講座で、アジアにおけるグローバルデモクラシーの展望がないまま国家祭祀が事実上復活してしまったという危機感をもって明治維新の近代を相対化する批判的視点を学んでいる。‬



こちらがこんなに良いと言われているし確かにあちらに行ったら酷いことになるだろうとわかっているのに、あちらに惹かれて行ってしまうのはどうしてなのか?まさに説明すべきことはこれではないか。こちらが良いとわかったうえで、希望をもってあちらに行ってしまう人々に向かってこちらがいかによいかの言葉を繰り返しても仕方ないだろう。芸術は表現の問題に取り組む。思考できない思考、他者の表現の問題である。芸術は本質なき分節化された世界ー脱構築される世界ーを表現する。問題は、他者を愛するからこそ、愛するにも関わらず、ナショナリズムの他者を殺戮する言説の内部に絡みとられてしまうようなことは、近代の前になかったのである。国家祭祀の近代として成り立った日本近代の問題をトータルにみなければ、靖国参拝しかないとする行進が終わらないのではないか。靖国神社としての日本人を発明する言説が、靖国神社から2000万の命を奪った国家神道を引き離そうとしている。


ゲンロンは「市民」を口にするのはいい。だが人類的立場を以って表現の自由を自分たちのものにすべき問題を外交問題にして中立化するのは反対。一人ひとりは国民N-1党に転落したようなお喋りでなく)、言論をもつならば、日本側の戦争犯罪を認めた上で慰安婦問題の生存者がいる間の早急な解決を考えるときだ


他者アジアとの関係のシンメトリーが存在しないかの如く考えても無駄な事で、一国二制度の限界というよりは、中国スターリズムの官僚資本主義ではやっていけないことが明らかになって習近平の近代が終わるときは、昭和ファシズムを齎らした明治維新の近代のノスタルジーも終わるだろう。問題となってくるのは、歴史修正主義に占領された一国民主主義のままで、自分たちでそれを終わらせることができるのかということ。



戦争体験は語られるのになぜ伝わらないのか?これほど大切な事が伝わらないのだから、例えば『古事記』が言われるようには連綿と語り続けられてきた筈がない。『万葉集』以前の語り伝えられた全てか殆どが消滅していたのではないかと思う。物語られるから伝わらないことだって起きる。もしそうだと考えるとしたらどういうことが言えるだろうか?起源が後退すればするほど声の力に頼ることになる、このことによって経験は永遠となると言われる言説も出てくるが、わからないな。この言説によって、全体性の正しいイメージが自らに見出されるとされるというか。経験はそれが住処とする書記言語と一体となって生きるあり方を伴うことがなければ書かれたものにならず声のなかで消滅し切ってしまうのではないだろうか。


靖国神社の問題は、死者のあいだにhierarchyを作り出す点ですね。靖国神社は近代の産物であるとする安丸の指摘のとおりだと思います。ただ、儒家神道と国家との関係は一直線上にあるとして説明してしまうのでは簡単すぎるかもしれません。活動的知識人たちを集めた後期水戸学の言説(国体の思想が政治神学的に構想される)が明治国家の構想をつくりだしましたが、明治維新後は、明治国家は平田篤胤の弟子たちの思想家たち(スピノザ的な汎神論を展開した人もいました)を政府から追放しました。「日本しかない」というような主張に顕著ですが、理念的なものを軽視する日本会議に結びつくのは、平田篤胤系ではなくて、国家神道の方向をつくる本居宣長系であると考えられます。国家神道は即ち国家祭祀。これらは明治国家が作り出した制度ですが、徳川幕藩体制も国家として考える必要があると考えています。すると、どういうことが言えるのか考えているところです。国家祭祀は国家を通じて近代が制作するというポイントが大切とおもいます。そう考えることによって、安丸が強調しているように、中世の仏教の平等思想に、近代を批判する視点があったという指摘が意味をもつように思います。近代は死者のあいだにhierarchyを作らない中世の理想を実現することに失敗したのです。


言説「憲法は本来的に国民を統合する」はどう読まれたか?どう読まれたかといってもこのわたしがどう読んだかをここに書くだけですけれど。憲法の力とは、国際協調主義を発明していくことにあり、また国際協調主義の理念性を市民が自分たちのものにすること、敢えて言うと、市民を国民から分裂させる力だと思います。無理に統合するから、解釈改憲による軍国主義が復活し、また国家神道が復活するのではないですか。野党が言い出した国民統合の言説に先行して野党による靖国神社の参拝がありました。戦後の靖国神社は法人であり国家神道の国家ではなくなったといってもですね、参拝する民とそれを受け入れる社(建造物)があれば、国家神道と等価なものが成り立つという傾聴すべき指摘があります。統合の言説に絡み取られた野党は、日本会議天皇の象徴性を超える天皇教が「日本しかない」と叫ぶナショナリズムによっていかなる国際協調主義とその理念性を否定してくる危険を批判できるのでしょうか?




‪戦後憲法ほど国民統合の言説に顔を背けた言説もありませんが、丸山真男は例外的存在で、官僚養成機関である東京大学法学部が民主主義を教える筈もないことを考えさせます。憲法の力とはむしろ、国民を分裂させる力だと思います。無理に統合するから、解釈改憲による軍国主義が復活し、また国家神道が復活するのです。問題は、国会で安倍首相に芦部憲法学を教えてみせたと同時に憲法を代表している知をもつ自己の優越性を示したこの人は明治憲法の書かれない領域のなかで天皇の死者を主宰した権力を見えているかということ。国民統合の言説に先行して野党による靖国神社の参拝がありましたが、軍国主義と同じ方向を以って全体主義を呼び出したほどの無制限のこの権力が見えていたら年初の参拝はなかったでしょう。‬なにが言いたいかというと、戦後の靖国神社は法人であり国家神道の国家ではなくともですね、そこに参拝する民とそれを受け入れる社(建造物)があれば、国家神道と等価なものが成り立つということではないでしょうか。このことを考えるときでし、憲法の代わりに語る一体だれが靖国神社の下に憲法があるという日本会議の(隠している)主張を助けるのでしょうか。憲法を否定するひとたちとは限りません。国民の統合のつぎは、象徴性を超えた天皇教ー「日本しかない」と叫ぶナショナリズムと国際協調主義の理念性の否定ーでしょう。


そーなんですか、教養がないから、官僚、弁護士、政治家になるのかとおもっていました。わたしは人文主義しかないしだから教養って大切だと考えていますが、教養のあるひとの話をききたいとは思わないし、教養のないひとの話もききたくないのですが、これは、教養主義と、教養を重んじるが人格形成みたいな話にくっつけるなという教養主義批判、この両方から同時に、なんらかの影響を受けたことによるからだとおもってます。教養主義というと、明治の西田、大正の和辻哲郎をおもうのですね。和辻はアカデミーにデビューして哲学を教えるとき、かつて三木清から影響をうけたマルクス主義の出発を消してしまって、アリストテレスから語りはじめるのですね、これは大正教養主義の欺瞞かもしれないのです。日本知識人は和辻から漢文を読めなくなると言われます。このことの意味を考えないわけにはいきません。「倫理学」の語は中国の古典にあったとか、そういうことを平気で言ってしまうのですね(たしかにあることはあるが、文脈意味が全然違う)。わたしはアートを重んじるポストモダンですから、あまりに教養があることに警戒します。芸術というのは、教養主義的ではありません。若い和辻は九鬼といっしょに、たしか大川周明もいたのですが、岡倉天心の東大の講義に出ていました。岡倉天心が書いたものは、レトリック過剰で、反芸術的だおもうことがあります。それは確立された物の見方の中でそれとは異なる物の見方を作りたいとするところからくるのでしょうーだれも言わなかった「東洋」に依拠しようと語ろうとしたら教養主義に頼ってはうまくいかないというか...。現在は、文明を映像を編集するヴィジョンをもっていた和辻から影響を受けた形の世界文化遺産ブームですよね。しかしどうしてもあれは教養とは思えないんです。リベラルアーツでも古典でも教養を身につけるためにはヨーロッパ語を読めないと駄目でしょうが、ヨーロッパ語を読めない若者も漢文エクリチュールと注釈で中国の古典を読むことができます。しかし百田みたいなやつが国語から漢文を取り除けと言っていますね、小泉から始まる嫌アジアみたいな自民党的アジア観を製造しているように思います。中国の古典を読んでいたなら、ヨーロッパ古典と同じで一生かかりますから、ヘイトスピーチする時間がない筈ですよ(笑)


‪教科書もCMも安全ですと言っていたけれどみんなウソだったというソングが歌われていようですね。原発体制について考えさせるためにはいいことだとおもいます。 1980年代90年代のときでしたが、公害裁判の運動の現場に反原発運動のひとたちもきていたのですが、必ず原発災害が起きるし、起きるとしたら福島原発からだと当時はっきりと指摘できたひとたちがいました。具体的に予測されていた通りの事故が起きたわけですから、異議申し立てのひとたちが言ってたことは「ホント」だったという歌も歌える力をもつひとたちはぜひ歌ってほしいとおもいます。安全神話に対しては、持っている情報が限られているので全部ホントであることは難しいですが、意味のある異議申し立てが大切だとおもっています


漢籍(カラブミ)をもまじへよむべし、古書どもは、皆漢字漢文を借リて記され、殊に孝德天皇天智天皇の御世のころよりしてこなたは、萬ヅの事、かの國の制によられたるが多ければ、史どもをよむにも、かの國ぶみのやうをも、大抵はしらでは、ゆきとゞきがたき事多ければ也(うひ山ぶみ

「これは映画ではない」

‪ 「これは映画ではない




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‪‪ゴダール映画のカメラは命題論理だといわれます。思い出すと、ダブリンの詩人のリチャードはこれを見て「くだらない」といってきました。若いときトリニテイで彼は論理学の勉強していたから直ぐに気がついたのですね。「これは映画ではない」。でも本当にくだらないでしょうか、ハリウッド映画の魔法使いの絨毯よりは信頼できるかも。これは、正しい映像などなくただ映像が存在するように、ー内部に絡みとられては読み出せませんー、無矛盾があるだけだという話です(無矛盾であるかぎり無矛盾は形式証明できない)。これをヒュームの哲学と一緒に考えると、何というか、一見辻褄があっているが、世界に原因はなく、他から独立できるように自己完結した円に還元できないほどのカオスだということだってあるわけです。思想の肖像画は自ら、内部に求めることができないという外部に関するギリギリの理念性は存在するのではないかと思ってます。つまり‪思想史としての映画史の‬旅に出ようと...

津田左右吉

「他力本願」(『教行信書』)と「克己復礼為仁」(仁斎『論語古義』)の自己を否定する日本思想は普遍主義的によく理解できるものです。西欧思想史からみると、津田左右吉は普遍主義であるのか或いはそうでないのかわからないというのですね。漢字は不可避としての他者であるとする言説を受け入れないのではないかという感じで思考が不可能となるほど他者(儒教と漢字)を否定し自己(儒教を復活させた明治維新国民国家)も否定する思想も意味があることを子安宣邦氏の講座「明治維新の近代」で学びつつあります。昨夜は登戸で、他者の思想をゆたかにする解体-日本思想の肖像についてわたしは考えました。

津田左右吉

‪「他力本願」(『教行信書』)と「克己復礼為仁」(仁斎『論語古義』)の自己を否定する日本思想は普遍主義的によく理解できるものである。西欧思想史からみると津田左右吉は普遍主義であるのか或いはそうでないのかわからないという。しかし思考が不可能となるほど他者(漢字)を否定し自己(儒教を復活させた明治維新国民国家)も否定する思想も意味があることを子安宣邦氏の講座「明治維新の近代」で学びつつある。‬解体-日本思想は他者の思想をゆたかにする。

漢字論

‪他者を罵倒する幻想、ヘイトスピーチ。どうしてヘイトスピーチがおきるのか ?この他者を罵倒する幻想が幻想を生むのは、『古事記』みたいなものを読むからではないかと思っていた。そんなに単純なことではない。たしかに現代語訳を読めば、他者を罵倒する一国主義的幻想の近現代をもつことになるかもしれない。ヘイトスピーチの背景に、言語支配者である表現する他者が与えてくれた漢字を発展させてきた感化の大きな運動の意味が十分に理解されていないことから生じる問題があるのではとおもう。『日本書紀』『古事記』は読めない漢字書記テクストである。12世紀の朱子のテクストが読めないのだから、千年以上前のテクストであるそれらを読むことはもっと困難だろう。漢字のせいで読めないとわれわれはおもう。しかし読むとは何であるか?考え方によっては、言語支配者(中国)から与えられた漢字のおかげで、われわれは考えることができるようになった。漢字を読む工夫から、漢字仮名からなる日本語が形作られてくる。漢字受容から千年後に、天皇・貴族・寺社に独占されていた学問を町人と農民が行う。市井の学者さんであった儒者達は注釈を書いた。漢字仮名による思考が成熟してくる。これが本当の意味で漢字を自分たちのものとして読むことである。ここにオリジナリティがある。もちろん本居宣長のように大和言葉と古代人の心を想定することは可能である。大和言葉も古代人も思考の方法である。ところが近代主義のもとでこれらが思考実体化される。問題は、近代の物の見方を共有するナショナリストは古代人の心が住処としていた言葉をオリジナリティとするような幻想をもつことにある。ナショナリストは『古事記』という漢字テクストから考えることをしない。漢字によって日本が日本であるオリジナリティは破壊されたのだから。ただし津田左右吉ナショナリストでありながら皇国史観の批判を徹底的に行った。

Storyteller


No.1

隣国を信頼して戦争しないという誓いはどうしたのですか?誓いを実現するためには全力で外交しなければいけないでしょう。ホホー、中々二人以上にならんのですけど、「ふくろう猫共和国」から、国交断絶のノリでワイワイいっているようならば「ホワイト日本」を除外することにきめましたニャ。なにか?


No.2

‪少女像といえば、二、三十分かんがえても芝居の感想の言葉が中々でてこなかったときに、静かに隣に座っていた人にちょっと意見をきいてみようと話かけたら、少女像だった‬...

「ファッシズム前夜というより当夜のようだ。ファッシズムは国民の敵を作り出す。恐ろしいことは国民の中にも敵を作り出すことだ。気付いたときにはもう物をいえなくなる。」という子安先生の証言を読んだ。

「国民の心」といわれるものの見方とは、安倍晋三とおなじものの見方のこと。これを踏みつけてこない芸術は意味がある芸術といえるだろうか?



No.3

ハンナ・アーレントは亡命中に私はドイツ語を喋るがドイツ人である必然はないと語ったという。問題は、日本語を喋るが日本人でなければならないのか?近代は、前近代である日本人に対する永久革命を行うことによってこの問題を解決できると考えているようが、ほんとうに前近代をゼロしてしまっていいの?明治維新の近代を批判的に相対化できる視点をもった大切な思想形成もあったのだし。近代の「真」の始まりとされる始まりも恣意的である。また革命である以上、権力をとる支配者が変わるだけではないだろうか。それよりは国内でもいいから-その場所がわからないが- 亡命した方がいいし、外部への脱出の方法を一生懸命かんがえるし、及び腰だがその外部から何とか逆らってやりたいとかんがえるのだけれどね。

近代は権力を構成する中心に表象があり、権力者は表象をコントロールできぬことをつねに怖れる。「日本人の国民の心」というずっと言われてきた言説を恰も初めて言われたように受け入れるとき、この外部への脱出の方法を一生懸命かんがえないかぎり、われわれは気付いたときにはもう物を言えなくなっているというか。



No.4

‪「表現の不自由」と言われますが、わたしの考えでは、表現する自由はいくらでもあるようにおもいます。問題は、表現されているものをみる多様な見方がないことではないでしょうか。多様な見方がないと表現が成り立ちません。展示に反対するひとたちが少女像からは「反日」しか感じられないことは大変ショックです。ゴダールの言葉ですが<感化の大きな運動>がコミュニケーションにおいて大切だという意味で、わたしならば、「感化の不自由」展とすることでしょう。

MEMO

子安先生によると、伊藤仁斎は天地の生成を善としてとらえていく。善は生まれつきの善である。そうして覚醒について考える仁斎は朱子と共にあるが、彼は朱子学形而上学的な理気論的概念と体用論的言語から離れていく。至上なものは、究極的なものにではなく卑近なものにある、という。仁斎の前にこのように考えた人はいなかった。京都堀川の裏側に住んでいた仁斎は夕方の景色を読んでいる。仁斎の注釈は難しいのだけれど、漢詩ならば、仁斎の卑近なものをみる見方がわかってくるような気がするのは、それが景色を読んでいることによるのだろう。仁斎は言語のなかのx(映像)を開いている。これは私の憶測だが、朱子学の天地の生成を考えていた知識人たちは景色によって語られていることを理解できなくなったのではないだろうか。(下のページは宇野直人『漢詩を読む』NHK ラジオテキストから引用した)



「国民の心」といわれるものの見方とは、安倍晋三とおなじものの見方のこと。これを踏みつけてこない芸術は意味がある芸術といえるだろうか?


隣国を信頼して戦争しないという誓いはどうしたのですか?誓いを実現するためには全力で外交しなければいけないでしょう。ホホー、中々二人以上にならんのですけど、「ふくろう猫共和国」から、国交断絶のノリでワイワイいっているようならば「ホワイト日本」を除外することにきめましたニャ。なにか?


党派性なき語りとはなにか?量が増えていくときに、単純に増えていけばいいのか、質的転換をする必要がないかという問いが出されたが、小田実は必要ないと語ったという


Faire du cinéma, c’est y voir clair dans la caverne de Platon grâce à la lumière de Cézanne.

ー Godard


少女像といえば、二、三十分かんがえても芝居の感想の言葉が中々でてこなかったときに、静かに隣に座っていた人にちょっと意見をきいてみようと話かけたら、少女像だった


近代は権力を構成する中心に表象があり、権力者は表象を支配できぬことを怖れる。言説を受け入れると、脱構築するまで、われわれは気付いたときにはもう物を言えなくなっている


権力者が無力な芸術作品を国民みんなの敵にしなければならないほど怖がっているというのもなんとも不思議な話ではないか。ヒトラーは若いとき売れない画家だったが、最近は中々の水準で絵を描いていたという評価がある。ナチスは政治の美学化  であるといわれるように彼らなりに芸術を愛していた。その中にあって、表現主義作品はナチス言語化できない傷口が膿んだこだわりを打ちのめすものであったようだ。それは統合しなければならない全体主義からは退廃として名指された。退廃はいつ始まったのか?そう昔ではないだろう。退廃が始まった年号と日にちが分かる筈だ。それは主体が二重化されると共に空洞化する(主体が鍵のかけられた表象の部屋から脱出する)近代の始まりに遡ると思うが、謎は深まるばかりだ。近代は権力を構成する中心に表象があり、権力者は表象をコントロールできぬことを怖れる。「日本人の国民の心」というずっと言われてきた言説を恰も初めて言われたように受け入れるとき、われわれは気付いたときにはもう物を言えなくなっているというか


近代は権力を構成する中心に表象があり、権力者は表象を支配できぬことをつねに怖れる。言説を受け入れると、この外部へ脱出するまで、われわれは気付いたときにはもう物を言えなくなっている。精神分析学はオイディプス三角形をもつ言説である。また同様に、文献学のオリエンタル学に拠らない、ヨーロッパが非ヨーロッパを描く人類学も構造主義をもつ言説と考えられる。



反日」という言説は言語化できぬ固有性へのこだわりでもなく、外部の介入によって只そこにある事態を不可避的に他者としてあると構成する物の見方に対抗する似非超越化である



廣松渉のあまり理解できない’良い’読者ではなかったのは、『資本論』の深遠な読みに必要な哲学だと言われていたのでかえって読めなくなっていたということもある。魅力とされた漢文的造語も苦手だった。みんなが分かっている「精神」という語もわからないままだった。労働法のゼミのなかで読んだが、わたしのような凡庸な読み手は時間がかかる。けれども現在は朱子語類』鬼神論が記す「身体」について考えたし、何とかこの一文ぐらいは理解できる(と思っている。)


われわれは日常生活において、四囲の存在とわれわれ自身の身体とを反省以前的に区別しており、この身体的自己にはいわゆる精神的自我が宿っているものと即自的に了解している。「外物ー身体ー精神」という三分的区別の構図はー三分肢それぞれの内実に関する了解の時代的差異を問わずに形式的にいえばー構図そのものとしては、近代以前における万有霊魂的(アニミズム)な世界観においても背景となっており、遡ってみれば、おそらくや太古以来、“世界像”分節の基軸をなしてきたものと思われる。この構図を端的に放擲してしまうことは、日常的・実用的な意識生活にとってはもとより不可能であろう。しかしそこには或る重大な陥穽がひそんでおり、外物と身体、身体と精神(意識)とを存在的に截斷してしまうところから一連の悖理が生じる。それゆえ、われわれとしては、まずはこの間の事情を対自的にとらえかえしつつ、”既成観念の批判”を試みておかねばならない。」ー廣松渉「共同主観性の存在論的基礎」第1節 身体的自我と他在性の次元。‬


‪この後、「問題が生じるのは、個体としての身体的自我を以って能知能動的な自立的主体とみなし、このものが所知所動としての客体的外界に対して能知的主体として関わるというそのかぎりでは、“身体的自我”が実体的に自己完結的であるとみなすこと、要言すれば、「能知的主体」と「所知的客体」とを存在的に截斷することがらであ。」と言っている。これは近代知の言説に対する批判を為す問題提起であろう。‬

‪「虚心に顧みるとき、身体的自我なるものの“境界”はきわめて曖昧であるきとに気がつく。」という。‬

廣松は映画を見たことがあるのかと思っていたから、「映画に熱中していて我にかえった場面を想像されたい。」と言っている文を大変興味深く読んでいる。ここで映画を例にして、「「図」は一般に、“錯分子的に”重層的な分節状相を呈するし、時としては、地と図とが明晰に反転することなく、準地的=準図的と呼ぶべき相で現前する」と分析しているのはわたしにとっては大きな問題提起である。‬



表現の自由を芸術に与えるならば、芸術が何かを定義しないことが大切である。嘗て抽象的幾何学で構成された善なるものが芸術とする見方があったが、そうして一度確立した芸術の見方のなかでそれとは異なる芸術の見方が生まれるのが困難となってしまう。芸術の性質が「日本人の国民の心」と定義づけられたら排除しかなくなるだろう。作品はただ命名行為によって芸術と名を与えられば芸術であると思う。展示する人たち(必ずしも専門家とは限らない)が芸術と名づければ芸術であるとおもう。理念的には、これは芸術であると名指すのは文学テクストではあるまいかと思っているのだけれど、そういう本は何処に存在しているのか?


‪芸術は定義できるか?意外に思われるが、ポストモダン思想のジル・ドゥルーズは定義できるという。『アンチ・オイディプス』において、『言葉と物」のように、アイデンティティの近代は批判される。多元主義としての存在の概念が再構成される。あらためてそこから、主体の概念なくしてファシズムとたたかえるのかと問われるように、ファシズムにたいして芸術は定義できるのである‬とする。



中国哲学の再構成はインド哲学との出会いによって起きたと考えられている。東アジアに確立した朱子学の哲学は、17世紀徳川日本の時代に脱構築されていった意味はなにか?これは京都から起きたアジアにおける知識革命を為すものであった。20世紀ポストモダン孔子という読みは翻訳を通じて、現在中国の関心を呼んでいる。21世紀の東京で行われた、17世紀の朱子語類鬼神論の読みは鬼神論を超える。鬼神論のディスクールはアジアからヘーゲルとフーコが発見されていくかのようである。‪子安宣邦氏のもとで朱子を読んできたが、これと平行して、市民大学講座で、アジアにおけるグローバルデモクラシーの展望がないまま国家祭祀が事実上復活してしまったという危機感をもって明治維新の近代を相対化する批判的視点を学んでいる。