思想史についてー思想史アマチュアが書きました

講座『大正を読み直す』のときに彼の名前をはじめて知ったとおもっていたが、そうではなかった。忘れていたが、思想の歴史に関心があったがどう勉強していいのかわからなかった学生時代に、津田左右吉の本を読めと父に言われた。そのときは何か彼をとらえている情緒的知を感じて非常に怖かったのを思い出した。『古寺巡礼』の和辻を読めと文化的にすすめてくる多分ヨーロッパに負けないと構えるこの言葉に躊躇いと後悔を感じないことはなかったが、比べると、津田を読めと言ってくるあの雰囲気は戦前からきた何かなのだろう。否、もしそうならばそれは戦後に隠蔽される何かであるはずだ。津田は戦後も考え方を変えていないということがあるのかもしれない。単純化を避けるべきだが、強いて言うと、和辻は思想の歴史を考えていたらという前提で言うと連続性があったというだろう。偶像を指差してそういうふりをするだろう。津田は彼の専門なのかわからないが思想の歴史に連続性をみとめないだろう。それを認めたら国家に対等でなくなっちゃうというか。しかしシナ文字が日本知識人の思考の発展を阻害したという観察は古代に遡って言われる。「シナ」消去の主張は一貫性がある。さてわたしは思想の歴史は現在もどう勉強していいのか分からずにいるアマチュアであるが、思想に歴史があるとか無いとかをわれわれが言うことにいかなる権利があるのかという問いに惹かれる。法の歴史に連続性は無いが、不連続であってはならない。これは論理的フィクションによる。思想の歴史はもっと複雑にみえるのは言語が関わるからだろうか、到底わたしのようなものに思想史に取り組むことなどは無理なこと。そのかわりに、映画の歴史ならわかるのではないかと思っていた。目に見えるものを対象にするからであるが、しかしこの見通しは甘かった。ヴィットゲンシュタインにおける盲人との対話において示されるように、人間の精神は、そもそも見ること自体を疑うところに来るからである。精神が見えないあり方をしているからかもしれない。映画史も思想史と同様に、見えないものとともに思考していく。結局思想の歴史が二重化しただけだったのではないかと自失茫然しているー此方では思想は見えないものであり、彼方にいっても映像は見えないものがある。絶えず精神は亡霊の如くこの二つの間に彷徨っている

コッポラの『地獄の黙示録』を読む

コッポラを称える

アメリカ人観光客が地図を携えて第三世界を旅行するときはいつどこでテロに襲われるかわからないという『地獄の黙示録』のなかにおいて描かれたような恐怖をもって歩いているのだろう。映画がやれることは少ないが、それ以上のことを伝える。レンズは構造に留まることが不可能な過剰である。レンズからやってきた映画はただの知覚である。映画は自分と似たものを作るだけである。地図はロゴスなき知覚に還元される。多分土地の名のない地図であろう。もはや地図を為さないたくさんの線になぞられた知覚の面というか。国家を制作するのは命名によることだとしたら、映画はこれとは反対のことー国家の解体ーを投射する。そのほかのことは、映画はなにを伝えることができるのかそれほどはっきりしない。映画は自分と似たものを作るだけだと書いたが、映画の際限のない言語は、いつまでも宙に浮いたままであり、決して何かの相似に満たされることはない。映画の徴はいたるところにあるー海に漂う板に、あるいは、映画のなかで不動のまま絶えず動くヘリコプターに


アイリッシュは『地獄の黙示録』を「魔法の絨毯」と嘲弄した。ナショナリズムを呼び出す諸言語における記号的透明性の中で世界に自分が類似している意味を読めないようにするから?


コッポラの『地獄の黙示録』。公開当時はベトナム戦争をこのように描いてはいけないとする映画に対する非難があったけれど、たしかテレビででやっていた。コッポラの構想の大きさを実現することは難しかった。マーロンブランドはなにもしなければしないほど出演のギャラが上がっていった。隙間があっちこっちで見えてしまう。映画制作がout of controlだった痕跡がみえる。この場面だけれど、ヒューマニズムというか子供の安全を非常に気にかけるけれど、サーフィンをするためならば村をナパーム弾で焼き尽くすことは全然かまわないこのアメリカ人の矛盾をどう表現するかは、撮影監督ヴィットリオ・ストラーロにかかっていた。酷く非現実的なピンクと黄色の煙からうつろな言葉が滑るようにでてくる。何とアメリカ人はサーフィンする海をバックに自己に投射した戦争を語り伝えるのだ。嫌悪感と恐怖に囚われながら、自己の中の言葉にできない闇の内部を吐露するように崇高な詩を作る “I love the smell of napalm in the morning." このヒロイズミは何もかもおなじで区別がない。世界を戦争にする狂気とはこれだと映画は伝える、と大袈裟に書くと、おまえはロマン主義といわれてしまうのでほどほどにしておこう(昭和維新ロマン主義で沢山だ。) 演劇にしたら面白いかもしれない。舞台で伝える。アメリカ人観光客はこういう思いで第三世界を旅行しているだけのことなのだと。こういうのは、脚本におけるロゴスの構造をもつ演劇が得意としてきた領域だ。だがロゴスなき映画ができることは少ない。カメラは構造に留まることが不可能な過剰である。レンズからやってきた映画はただの知覚である。映画は自分と似たものを作るだけである。地図は知覚に還元される。多分土地の名のない地図であろう。もはや地図を為さないたくさんの線になぞられた知覚の面というか。国家を制作するのは命名によることだとしたら、映画はこれとは反対のことー国家の解体ーを物語る。そのほかのことは、映画はそれほどなにを伝えるのかがはっきりしない。こちらの読みを、闇のなかで笑う映画か?原作のコンラット『闇の奥』はポストコロニアリズムにおける読む可能性をもっている。

フーコ『言葉と物』

フーコ『言葉と物』の序文と第十章が重要な理由は何か?ラテン語の「世界という散文」よ、さようなら、と、西欧はそれ自身からの異別化を行った。近代はそれによってヨーロッパ中心主義へ行く。形式化された普遍言語を切り開く。この知は地球の隅々までを支配した。日本の近代化は他の地域の近代化と比べてこの近代によって漢文の前近代をゼロにするほどの極端へ行く。一見最高の知をもつことができたが、問題は、それと同時に、帝国主義をもたらした。このヨーロッパ中心主義の克服は、構造主義と音声化の方向によって可能なのか?後者はたんに前者を対抗しただけではなかったか?第十章はこのことを問うた。人文科学を再構成すること。そのためには、マラルメの別の読み方が要請される。構造主義の言説から言葉を奪回する意味の大きな役割を考えてみよう。そうして『言葉と物』の第二章の重要性もみえてきた。「世界という散文」を「国語という思想」に置き換えていく永久革命の様相を示す近代「知」の表象性を批判するフーコの議論はこの章からここからはじまるといえないことはない。『言葉と物』は、復古主義でも伝統主義でもない日本近代のナショナリズムの正体を明らかにできる。

フーコ

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「不条理が列挙された物々の分けられる場所である<なかで>を不可能にすることによって、列挙される<と>を崩壊させてしまう」ー フーコ『言葉と物』序章

(本居宣長が「天」を「あめ」と読ませてそれがなんの意かわからないと注釈しだが、このやり方は<なかで>を不可能にした。子安氏の指摘によると、漢字を意味なき記号としてしまえば思考の崩壊が起きるだろう。つまりファシズム的である。日本人が宣長を好きな理由がここにある。他者との間に、独立した彼方と独立した此方という境界線をひいてしまう。)

フクロウ猫、憲法の憲法を書く‬

‪フクロウ猫、憲法憲法を書く‬


‪<第一条>‬

‪何人も自己のまわりに明治維新の近代国家に先行した権利ー漢字と仮名をもつ権利ーを音声化から奪われない。目に見えない排他的境界線を他者中国との間にひくことを拒む権利をもつ‬


‪<第二条>‬

‪何人も顔を隠す権利を奪われない。マスクの権利は21世紀に必要とされる人類の権利である。われわれの顔の下にあるだれかわからない仮面も保障されるべき‬だ


<第三条>

天皇は象徴性を超えてはならない。国家祭祀を禁じる。戦う国家と祀る国家を繰り返してはならない。領土問題は戦争によってしか解決されないのでこの戦争を絶対に禁じる。


<第四条>

将来誰もが避難所から受け入れて貰えぬ立場になり得る暗黒の不確実性の時代だからこそ、誰も避難所から受け入れて貰える平等を保障した社会契約を再構成したほうがいいんじゃない?

なぜ近代は古代を必要とするのか?

‪「クーオク万歳三唱」


‪「クーオク万歳三唱」という文が『フィネガンズウェイク』にあった。「quoi? quoi? quoi ?」と万歳するカモメのマーク王はいったい何を万歳するのかさっぱり分からぬとジョイスは嘲笑った。ここでジョイスアイルランド独立運動の起源的古代ゲールのことを考えたかもしれない。問題は、近代は永久革命の自身を称えるときは、どうしてかくも古代の姿における自身に万歳するのか?どうしても起源を必要とするこのことはアイルランドだけに起きたのではない。フランス革命の起源的ローマもあったし、明治維新の起源的古代もあった。‬そこで近代は古代の姿における自身に万歳したのだ。だが近代の革命と古代における自身の姿は全然類似していないというのにあたかも類似している、というか、同一であるという言説がとられる。奇妙なことに、近代は古代を考えることによってこれをたたえ、同時にこの同一性に反発して批判する否定的差異をもつのである。多分ここにはベンヤミン- ボードレール的テーマがある。世界は名もなき物質で満たされている(ベケット)。われわれは名づけられない知覚できぬ未知なものを見たり聞いたりする。名づけることは反復にほかならない。それは父の反復の危険がある。他方で、類似の思考が侵入してくると、何が本物でなにが射影なのかわからなくなるとき、アンチ・オイデプス的あるいはリゾーム的な差異化のチャンス(porous)があるのではないだろうか。‪前に言われた事を繰り返して言われる事も実は常に初めて言われるのだし、初めて言われる事も既に前に言われたことである。‬ 最後に古代と言ってもね、それは17世紀が制作した古代なのだから

MEMO

<社説>天皇即位の儀式 権威高める手法に警戒を


「大戦前の即位儀式は、天皇の権威を内外にアピールし、国民の崇拝意識を高め国威を発揚する狙いがあった。沖縄は天皇の権威の犠牲になる歴史を歩んだ。琉球併合に至る過程で、明治政府は、中国皇帝が琉球国王を任命する冊封をまねて天皇も任命権があるかのように振る舞い、天皇の命令に従わない琉球を「処分」した。沖縄戦では皇民化教育の下で動員された多くの住民が犠牲になった。戦後は米国による軍事占領を望む「天皇メッセージ」が米側に伝えられ、米国統治下に置かれた。」(琉球新聞)


テレビはなにを伝えたのか?‪いつものように何も伝えていない。‬宋代における皇帝制度の完成が明治維新の日本においてみたといわれる。そこで19世紀の一神教ナショナリズム的言説は国家を制作した聖人をアマテラスにしてしちゃえという。アマテラスが先頭に歩いているはずなのだが、テレビがとらえきれなかったようだ。否、もうそんな教育勅語の時代ではないのだ。では象徴性を伝えていたか?わからない。歴史修正主義者が万歳している。軍国主義が権力分立の民主主義に向かって砲撃せよと合図しているようだ。と、外部との交流によって豊かになる文化のあり方を拒んで動物のようにうずくまる「日本人」の惨めな姿がみえてしまった...


‪「クーオク万歳三唱」(『フィネガンズウェイク』という文があった。「quoi? quoi? quoi ?」と万歳するカモメのマーク王はいったい何を万歳するのかさっぱり分からぬとジョイスは嘲笑った。ここでジョイスアイルランド独立運動の起源的古代ゲールのことを考えたかもしれない。問題は、近代は永久革命の自身を称えるときは、どうしてかくも古代の姿における自身に万歳するのか?どうしても起源を必要とするこのことはアイルランドだけに起きたのではない。フランス革命の起源的ローマもあったし、明治の起源的古代もあった。‬そこで近代は古代の姿における自身に万歳したのだ。だが近代の革命と古代における自身の姿は全然類似していないというのにあたかも類似している、というか同一であるという言説がとられる。奇妙なことに、近代は古代を考えることによってこれをたたえ、同時にこの同一性に反発して批判する否定的差異をもつのである。多分ここにはベンヤミン- ボードレール的テーマがある。世界は名もなき物質で満たされている(ベケット)。われわれは名づけられない知覚できぬ未知なものを見たり聞いたりする。名づけることは反復にほかならない。それは父の反復の危険がある。他方で、類似の思考が侵入してくると、何が本物でなにが射影なのかわからなくなるとき、アンチ・オイデプス的あるいはリゾーム的な差異化のチャンス(porous)があるのではないだろうか。‪前に言われた事を繰り返して言われる事も実は常に初めて言われるのだし、初めて言われる事も既に前に言われたことである。‬ 最後に古代と言ってもね、それは17世紀が制作した古代なのだから


子供たちが投げかける問いは、そこに機械の問題を見ないかぎり、決して正しく理解されることがない。(…)スピノザ主義とは、哲学者が子供に<なる>ことにほかならないのだ。一定の関係のもとで一つの身体に所属する微粒子の全集合を、その身体の経度という。D=G[(中)p198]


seq2 そんな世界を思考してみなければならない。名もなき物質で満たされ、触知しえぬ物質の微細なかけらが可変的な連結関係に入っていくような、存立平面。D=G[(中)p196]


seq1 すべてが動き、すべてが遅れたり、早まったりする生の固定平面。唯一の抽象的動物があり、それを個別の動物として実現するあらゆるアレンジメントがある。(…)脊椎動物が十分に早く体を折り曲げれば、それだけで背中の両半分の要素が接合され、D=G


seq1  存立平面の上ではすべてが知覚しえぬものになり、すべては知覚しえぬものへの生成変化となる。しかし知覚しえぬものが目に見え聞こえる場は、ほかならぬ存立平面にあるのだ。存立平面とは<平面域>ないしは<リゾーム圏>であり、<至高の基準>である[…] D=G


グレコルネッサンスの停滞からスタイルを革新した。表現主義キュビズムの先駆となった。またカトリックにおける対抗プロテスタンテイズムとしてただ描くのではなく世界を語るというイメージの革新を行なった。外に出よと、磁力のような世界のあり方(言説)を物語っているようだ。20世紀のピカソは(右絵)、この500年間注目されなかったグレコを発見した一人。Godardの『パッション』のなかでグレコの作品がでてくる


芸術に「共感」がもとめられているのでしょうか?では学問に「共感」がもとめられるのでしょうか?宗教に「共感」がもとめられていますか?芸術だけに「共感」がもとめられるのかと疑問におもいます。芸術は「共感」の構造を豊かに表現することができます。ここでルネッサンスコスモロジーの知恵を借りると、「共感」の働きだけでは、極端な話、何もかも同化の一点に向かってしまいます。「共感」を憎む「反発」の働きもあって均衡をとれるのです。世界に意味のある多様性を保つことができます。芸術が表現するのは世界における多様性ではないでしょうか。

「表現の不自由展、多くが共感できず 野党支持層でも 産経・FNN合同世論調査


憲法を守り」も「憲法にのっとり」の言葉も、ほんとうかわからぬが、語る主体が憲法に学ぶ自己に誓っている感じはある。柄谷がいうような「憲法が守ってくれる」は、語る主体は自分の拘りーメタシステムが正しいーを彼らに教えるという「自身を語る」実のない抽象化である。‪言説批判の批評空間をつくった彼の高い達成を疑うわけではないが‬、憲法に限らず、文明がまもってくれると考えてきているようだ。そうでなくては‪日本を代表する批評とならないのかもしれないが、だけど民主主義はそれほど自動仕掛けに作動するのかしらといつもこの点に帰ってしまう...


何人も自己のまわりに明治維新の近代国家に先行した権利-漢字と仮名をもつ権利-を音声化から奪われない。目に見えない排他的境界線を他者中国との間にひくことを拒む権利をもつ


「アジアのバベルの塔は四書である」(子安先生)



Fintan O’Toole: Northern Ireland is being detached from the UK. Get ready for it


華厳哲学にいわゆる事事無碍法界の風光、道元禅師の言う「水清くして地に徹す、魚行きて魚に似たり。空ひろくして天に透る。鳥飛んで鳥のごとし」(坐禅蔵)の世界。


ミルプラトー遊牧民<不動であり絶えず動く>は、脱コード化における再領土化である。アジアでは宋代の思想に如此く心の中の方向づけを語っていたのだろうか?わからないが、これから朱子の文献を一緒に読んでいただければ何かヒントがあるかもと思っている(何もないかもしれないが、多分あるだろう)。私はジッとしていられないので禅は真っ平御免だが、それを考えるのはいい。‬昨日の「論語塾』の後のワイワイガヤガヤで、インドのみならずイスラムの影響もあるのだろうかという話題も出た。もしそうだとしたら大変面白い。12世紀の東アジアにおけるコスモポリタン思想を通して、現代のイスラムからの近代に対する問題提起を少しでも思想史的にとらえる手がかりになるのではないかな。ところでイスラム神秘思想についてはキリスト教のmonkの影響も指摘される。これも全くわからないが、グレンダーロッホ(アイルランドのウィックロー州にある氷河の谷で、6世紀にセントケビンによって設立された中世初期の修道院の集落)に何度か訪ねて、ウロウロウヨウヨしたっけなあ


Ce qui définit la majorité c’est un modèle auquel il faut être conforme. Tandis qu’une minorité n’a pas de modèles, c’est un devenir, un processus. Lorsqu’une minorité crée des modèles, c’est qu’elle veut être majoritaire ou qu’elle est contrainte de se doter d’un « modèle » nécessaire à sa survie (« avoir un statut »).


Gilles Deleuze et Félix Guattari 

L'Anti-Œdipe – Capitalisme et schizophrénie

Paris, Les Éditions de Minuit, coll. « Critique », 1972


フランス革命といえば、ブルジョワが主人公となった時代の出来事といわれた。だが現在はフランス革命とはブルジョワが時代を排他的に自分たちのものにした革命であったという説をめぐって大きな議論がある。ロシア革命ボルシェヴィキフランス革命の対立する二つの側面ーアナーキズムと国家ーを検討して、後者の道を選択したのである(これについては1916年イースター蜂起の失敗が彼らの認識に影響していたという説もある) 。革命を契機に近代国家が現れたことだけはたしかだ。これに関して異論はない。さてフランス革命の空間化は、明治維新の新権門体制の空間化のように、近代国家の空間化である。革命の英雄達の銅像を配列している、国家が自己のために自己を祀る建築物は、議会よりも上に定位しなければならない。国家である伊勢神宮靖国神社も、自由民権運動の敗北の帰結として、政府が作った国会よりも上にある。そして近代の新しい空間は空間だけを再構成したのではなかった。空間化は言語の音声化と一体のものであるという認識が重要である。近代の空間化は必然として帝国主義の空間化を展開させていく。音声化の方向は他者排除の分割を成立させていく。西田の「私と汝」における自他関係は関係性を問うた思考であるはずだったが、時代の流れのなかでもはや漢文エクリチュールの消滅と音声化との方向で透明化していく「境界線」が前提する同一化の思考である。私はこの問題をわかってきたのは12世紀の朱子の文献を読んでからである


現代ナショナリズム復古主義でも伝統主義でもない。一国民主主義と一国自立的言語(国語)が何を喋りつづけているのかが分からない言語であるわたしは自分が一人だと感じてしまう


対-自は、<自己-の-代わり-に>ということになるだろう。(『声と現象』)


作家が魔術師たりうるのは、作家が、権利上の責任を負うべき唯一の個体群として、動物を生きているからだ。――D=G


祈る行為は隠れてやるのである。祈るときは心の中に存在する神と向きあうからだ。人に見られながら公の場で祈ることは腐敗である。それは祈りではない。心の中から追い出した神を祀ることである。さて「祀る天皇」は憲法で禁じられた。そのかわりというか、象徴性を実現するために「祈る天皇」が現れた。しかし「祈る天皇」は国民を救おうとするあまり、過剰に象徴性を超える祈りを行うならば、戦後における「祀る天皇」の問題を考えさせる。権利のない社会に反対し抗議する市民たちを孤立させていったのは、「祀る天皇」においてであると言うべきではないだろうか


監督トリフォー演じるイタード博士のことは、フーコ『言葉と物』(第3章 表象すること)のなかに出てくる。

『野生の少年』の素晴らしい脚本をフランス人と一緒に一生懸命読んでもらったものだ。感謝している。アルメンドロスの撮影にひかれた。彼は光源は論理的に正当化されるべきだという考え方をもっていた。リアリズムというふうにいわれるが、そう明確化してしまうことができない。当時はこういうことですとわからなかったが、高く遠いものと低く近いものとの関係をかんがえていたとおもう。‪高く遠いものを高く遠いところにおいてはだめなんだとおもう。高く遠いものだけではやっていけなくなる。低く近いものに、自分のまわりに、高く遠いものをおかなければ、高く遠いものは成り立たないんだね。天の自由みたいな神話とリアリズムとの関係もそうだ。卑近なところにこそ信があるというか‬


コッポラを称える


アメリカ人観光客が地図を携えて第三世界を旅行するときはいつどこでテロに襲われるかわからないという『地獄の黙示録』のなかにおいて描かれた恐怖をもって歩いている。映画がやれることは少ないが、それ以上のことを伝える。レンズは構造に留まることが不可能な過剰である。レンズからやってきた映画はただの知覚である。映画は自分と似たものを作るだけである。地図はロゴスなき知覚に還元される。多分土地の名のない地図であろう。もはや地図を為さないたくさんの線になぞられた知覚の面というか。国家を制作するのは命名によることだとしたら、映画はこれとは反対のことー国家の解体ーを投射する。そのほかのことは、映画はそれほどなにを伝えることができるのかはっきりしない。


「不自由」というと本来「自由」が十分にあったみたいじゃない?そこそこの自由が与えられて全体主義の危機を問うこともない。それを含めて、「従属」といってくれた方がよくわかるのに...



『大正を読み直す』のときに彼の名前をはじめて知ったとおもっていたが、そうではなかった。忘れていたが、思想の歴史に関心があったがどう勉強していいのかわからなかった学生時代に、津田左右吉の本を読めと父に言われた。そのときは何か彼をとらえている情緒的知を感じて非常に怖かったのを思い出した。『古寺巡礼』の和辻を読めと文化的にすすめてくる多分ヨーロッパに負けないと構えるこの言葉に躊躇いと後悔を感じないことはなかったが、比べると、津田を読めと言ってくるあの雰囲気は戦前からきた何かなのだろう。否、もしそうならばそれは戦後に隠蔽される何かであるはずだ。津田は戦後も考え方を変えていないということがあるのかもしれない。単純化を避けるべきだが、強いて言うと、和辻は思想の歴史を考えていたらという前提で言うと連続性があったというだろう。偶像を指差してそういうふりをするだろう。津田は彼の専門なのかわからないが思想の歴史に連続性をみとめないだろう。それを認めたら国家に対等でなくなっちゃうというか。しかしシナ文字が日本知識人の思考の発展を阻害したという観察は古代から言われる。「シナ」消去の主張は一貫性がある。さて思想の歴史は現在もどう勉強していいのか分からずにいるが、思想に歴史があるとか無いとかをわれわれが言うことにいかなる権利があるのかという問いに惹かれる。法の歴史に連続性は無いが、不連続であってはならない。これは論理的フィクションによる。思想の歴史はもっと複雑にみえるのは言語が関わるからだろうか、到底わたしのようなものに思想史に取り組むことなどは無理なこと。そのかわりに、映画の歴史ならわかるのではないかと思っていた。目に見えるものを対象にするからであるが、しかしこの見通しは甘かった。疑う人間は、そもそも見ることができるのかというところに来るからである。映画史も思想史と同様に、見えないものとともに思考していく。結局思想の歴史が二重化しただけだったのではないかと自失茫然しているー此方では思想は見えないものであり、彼方にいっても映像は見えないものがある。二つの間に彷徨っている


 「西欧近代」の成立には、古代ギリシャ・ローマの「古典」を連綿と読み続ける作業が必要不可欠だった。そりゃそうだろう。「日本近代」の成立だって、このことはおなじで、つまり明治維新の前は、中国の「古典」を、16ー17世紀から発展した豊かな注釈に依拠して、読んだのである。われわれが考えなければならない問題は、戦後からは、西欧におけるオリエンタリズムが読む「古典」を読んできて、現在は現代中国語で翻訳されるけれど、果たしてそれらは江戸時代における漢字書き下し文(書かれたもの)よりも信頼できるのかということ。「話す-聞く」重視のあまり「書く-読む」の思考力が疎んじられている問題は英語の問題だけではないよね


クレーによると、「可視的にする」、あるいは宇宙の一端をとらえるためには、事物の観念に純粋で単純な線を結びつけなければならない。線の数を増やし、事物全体をとらえても、混信と雑音以外に何も生まれないというのである。――(中)p388


札幌を悪者にしているけれど、それはおかしいと思う。オリンピックはたかがスポーツ大会だから問題が起きたら一部の競技を他の地域でやってもいいはずだ。オリンピックを統一ある日本文化にしたいつもりでいるから東京にこだわるのではないか。靖国神社A級戦犯達の骨だけを取り除いて他の神社に移すことができぬと言い張る連中と発想がおなじで、結局ナショナリズムなんだ


 ‪映画というのは、方法としての神話だ。フレームは操作による(世界の)変形だ。フレームのなかに世界をとらえようとすると、世界は全体であると同時に枠づけられた世界は部分である。全体は全体である。全体を部分にすることができないのだから、これはフレームにおける矛盾だ。(スクリーンへの投射はこの矛盾を隠蔽してしまう。)そこでレヴィストロースが言うように、フレームに起きる矛盾に仮面を被せてみよう。何がみえてくるか。カオスがコスモスに先行していたのだ。ロゴスはギリギリ要請されるとしても、統一などできやしない。フレームから考える映画の方法としての神話的思考は、デリダ脱構築論、ドゥルーズリゾーム論‬とおなじ物の見方をなすとおもう