MEMO

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アジア思想を考えるとき、絵画における場合と同じように、点は四書の解釈のあり方を再構成する朱子学と『論語』に帰る古学であるが、点が線を作るのではなく、逆に、同一性と差異性の線のほうが脱領土化した点を巻き込み、外への作用に駆り立てる。外部の思考をもつポストモダン朱子学ポストモダン孔子



この放蕩というやつには少なくとも、なにやら不変なもの、自然に根ざしていて、幻想などに支配されないものが、つねにかっかと燃えている炭火みたいに血の中にあって永遠に心を焼き、さらに長いこと、おそらくは年をとってもそんなに早く消すことのできないものがある。 

―『罪と罰


Brexit means Titanic はなにを意味するのか?


ジョイス『ダブリナーズ』のテーマはcounterpartであるといわれることもある。アイルランドとイギリスはcounterpartであるか?ダブリンからロンドンへ行くと、実際にはそれほどでもないことがリアルにわかる。しかし仮にcounterpartであると考えてみたら何が言えるかと考えることに意味があるのだ。そうして、世界と映画そのものはcounterpartと考えてみる。何がみえてくるか?世界と映画が互いに互いを巻いている。IRAはそれまでアイリッシュが知らなかったハリウッドにおけるアイルランドのイメージを利用して現実のナショナリズムを作っていることに驚く。またBrexitを推進する保守主義者がもとめている大英帝国は、案外、映画『タイタニック』のなかの‘大英帝国’を夢見ているのかもしれない。しかしどんな夢も破れをもっているように、タイタニック大英帝国’には破れがある。目覚めは死である。だから夢を発明し続けなければいけない。

これがBrexit means Titanicという意味である。


カタストロフィを制御するノセントで勇敢なキートン。これはアメリカの原風景でもある。だが面白いのはそこじゃない。わたしの関心は芸術作品みたいにロープが連接しているのかはっきりしない点にある。どうも家は起源の記号らしい。起源というものを時間の流れから解放するアナーキーなイメージをよむのだけれど




近代エピステーメーの「知の三面体」

①演繹的科学(数学/物理学)

②経験科学(生物学⇔経済学⇔言語学

③哲学的反省(同一者の思考)

①⇔②数学化しうるもの

②⇔③存在論(生命⇔疎外された人間(労働)⇔象徴諸形式)

①⇔③思考の形式化

人間諸科学は何処にも所属しない

-言葉と物-



「働く⇔生きる⇔語る」三角形の転移

①表象の体系(古典主義時代)

「語る/一般文法」⇔「分類/博物学」⇔「交換/富の分析」

↓主要点が「語る」から「働く」へ転移

②近代人間学の体系(有限性を実定化して分析する)

「労働/経済学」⇔「生命/生物学」⇔「言語/文献学」

-言葉と物-



近代人間学の三角形の転移

①「経済学/葛藤」⇔「生物学/機能」⇔「文献学/意味作用」

↓人間諸科学の発生とそれらの相互構成・解釈による〈人間〉分析の増殖図式

②「経済学⇔社会学/葛藤⇔規則」⇔「生物学⇔心理学/機能⇔規範」⇔「文献学⇔文学・神話分析/意味作用⇔体系」

-言葉と物-



人間諸科学による近代人間実定化と非-人間排除の三角形

「経済学⇔社会学/葛藤⇔規則」→「正常/異常」

「生物学⇔心理学/機能⇔規範」→「合理/非合理」

「文献学⇔文学・神話/意味作用⇔体系」→「有意味/無意味」

→「正常/異常」⇔「合理/非合理」⇔「有意味/無意味」


‪『朱子語類』の鬼神論を読んでいけば、西欧の形而上学も理解できるというから、時々アリストテレスについて考えることになった...とはいえやはり考えることは難しい。時間が必要だ。鬼神論によってロマン主義的「精神」を生き生きと理解できるようになったのは本当にラッキーだった。「精神」はわたしの構成ではない。美を存在論的に把握するわたしはもっと古典的に考えたいのだなと教えてくれたと思う。これはポストモダニズムが近代をどう批判的に理解するかの問題でもあるかもしれないけれど。

『自然学』は何とか読める議論が結構ある。アインシュタインの言説によって乗り越えられた「絶対空間」の言説はここにある(マッハとか色々あるんだろうけれど)。) アリストテレスの絶対空間」の考え方が天球(外部がない)の概念と両立しないということを知った。知ることは優先される。知れば知るほど、知ることの困難な条件が問われてくる(「鬼神論」もそういうところがある。) ほかに、「無限」とか「場所」の話を面白く読む。読みながら、美はどこに存在するか?と思い巡らす。ここに答えが書いてはいないだろうが、カオスから(カオスをコントロールする)線の運動するリズムが生まれてくる場所について哲学的に考える。絵画作品を思いながら考えていくことができる。



積分記号の中にしか棲むことができない関数があるというんだね。どうか文系の愚かな妄想をゆるしていただきたいが、カフカ文学やゴダール映画のナレーターも記号を住処としている。そこに迷い込んだ人物達はナレーターの声を聴くー虫の声だったり鳥の鳴き声だったりーが、いつの間に痕跡に還元されて外に放り出されてしまう。文学と映画が関わるのはひそひそと呟く誰の声かわからぬ魂の声との交信だけである‬ーまだ消滅していなければ。プルーストはいつも波の音を聴いて書いている...


ポストモダン的再構成によって再発見されたオブジェob-jetのDadとsurréalismeは、数学のノマド的隠語の影響のもとに、大衆との関係を失って思考の形式として再出発するproーjecの映画と映画史の構想へと繋がって行くとおもうのだけれどね。面白いのは、映画史の理論化が注釈学的思想史によっていることで、思想史としての映画史は、まだ名づけられていないが、思想史でもなく映画史でもなく、新しい学問として意味づけることができよう。その学の方法とは、原初的イマージュとそれを注釈したイマージュとの間に共通のものがないとする。それだから根拠づけるよりも差異化していくことに意味がある。そうして差異は言説をもつことによって、(言説が再構成されるとき)学が成り立つ。「事件学」「言説学」という言葉は検索してみるとまだみつからないようだけれど。(上はBadiou の本の一文を撮った)


‪どの時代も、確立した物の見方と異なる見方が起きてくるのだけれど、言語表現の成熟のなかで起きてくるときに新しい見方が常に頽廃しているなどと非難されるのは、マニエリスムとかヌーベルバーグについてみると、成熟が秩序の働きとしてみえるからで(本当は無関係)、成熟が可能にした新しい物の見方はあらわれるときは常にスキャンダルである事件としてあらわれてくるというか...


‪『変身』の家はこうだったりして?天とのリズムを保ちながら、グレゴールの魂が虫の死体を住処としたように、情念は外部にすんでいる‬。情念は概念に先行する。概念は情念によって再構成される。傍の虫からじっと見られながらカフカゲーテ文学論からの諸々の出口をかいている。


たしかに文学にその痕跡はあるとおもうのですね。<いったん'得た'>ものについて考えてみようとするのですが、どうも、'得た'ものは無かったようにおもうのですね。それなのに、わたしの中で、<失うことになった>といつも感じているのはどうしてなのか。この喪失感はわたしだけでないようなので、(「みんなのもの」という冗談でなければ)、それは文学に書かれている先験的なものじゃないかしらとも思うのですが、'先験的'といえばそれで何かがわかったわけでもありませんね。<何かを得るために何かを失う>というのは、50年前の、1968年の輝かしい精神だったでしょう。だけれどそれはまだ近代のためとしてある反近代でしかないとしたら、<失うために失うことができる>というのが、現代という暴力が剥き出しになってきた時代に対して、1968年以降思想がとる喪失ではないだろうかとやっとかんがるようになったのですけれど。(考えたのはいいのですが、遅すぎたという観念に苛まれています。) その思想は探されているというか...探されているのですけれど、その思想は、無限に広い宇宙と等価の大きさをもった懐疑の内省と、虫の死体に宿った情念というか感情というか、そういうところにすんでいるというか、点点点点...変なものですね


‪Zilu s'arrêta pour la nuit à la Porte de Piere. Le gardien de la porte lui demanda: < D'où êtes-vous ?> Zilu dit: < De chez Confucius.> L'autre dit : < N'est-ce pas celui-là qui poursuit ce qu'il sait être impossible?> ( Confucius, Les Entretiens)‬


黒板 35 ‪


ウィトゲンシュタインについて彼の人生の真ん中にあたかも「立ち入り禁止」の標識が立っているかの如く、「前期」「後期」というふうに整理される。年表の知識として役立つ。だけれど私の場合、他者の手をとって渦巻きの方向に沿って「中へ」歩く記号の形式性と、その他者と共に渦巻き沿って「外へ」歩く日常言語の意味世界とを切り離してしまってはやっていけなくなるだろう‬なあ


ジョイスが分からなくなったら声を出して読めとアイルランドではいわれる。「自分が-語るのを-聞く」だけだと思う?意識はそれが定位する声の内部にとどまるか。外部の世界を自己の中心に置く準備をしている。声は時間とともに、原理主義の奥を占めることはない‬のではないだろうか



桜の謎が深まる。「功績」あるひとを呼んでいるはずなのに、なんで反社会勢力が来ちゃっていたのかと言うが、それならば反社会勢力に「功績」があったほうがよかったのか...



何が問題となっているのか?盗まれる公的資金。腐敗と不平等。市民法の廃棄を推進するのはネオリベの世界的傾向であるが、この国がやっていることも、四字熟語「公私混同」が知らぬ、選挙制度の「公」の崩壊。彼らはそのかわりに何を確立するのか?はっきりしないが、靖国神社としての日本人のナショナリズム、理念性を否定してもアメリカと中国から自立できるとする歴史修正主義天皇教ー文化にかかわる無意識的なものの体系。ここに、一国民主主義と自立的国語という思想が合流する。あらためて現在何が問題となっているのか?思想史の欠如もある。自動仕掛けにどんどん狭くなっていくばかりの排他的にせまい物の見方を批判的に相対化していく、広さをもつ物の見方をもつことは可能だろうか。500+1000の思想史ーあらためてフーコのヨーロッパ500年の近代を批判した思想史と、明治維新150年の失敗を反省するアジア1000年を見渡す思想史



東京五輪のなかに隠蔽される原発<体制>の問題とは、不平等、汚職、政治的自由の問題。人間の「健全な」肉体に、歴史修正主義の声を聞く「健全な」精神ぐらいのものしか宿らない



世界は習近平が香港に軍事介入するかもしれないことを非常に心配しているのは、「天安門事件」が再び起きるのかと考えられているからだが、なんというか、現在の習近平の<ひとりの>中国と比べれば、皮肉だが、かつての中国は<党員の数の存在だけまだより民主的だった?>‬という話も出てきた。「礼」は「暴力」にたいする法と秩序であるという、中国の「礼」の勝手な解釈に同意していたかのようなあの日本の言説は「選挙」=「暴力」に対する「礼」=軍事介入に拍手するのかしらね?


イギリス、アルコール、ローマ・カトリックアイルランドの三大病といわれる。カトリックからの抑圧感は国家神道の場合と比べられるだろうか、反ー普遍主義の地域宗教が大切で、パワーを失ったfaith healerに焦点をあてた面白い芝居(ブライアン・フリール)なんかもあった。宗教と芝居、この二つは何処にもある


証言によると、撮影の現場ではゴダールの周りは彼の敵だらけで、意図的にそうしているのか?わからなかったが、あの意味の幅のあるモンタージュはそうして成り立ってくるのだろう



イギリス、アルコール、ローマ・カトリックアイルランドの三大病といわれる。カトリックからの抑圧感は国家神道の場合と比べられるだろうか、反ー普遍主義の地域宗教が大切で、パワーを失ったfaith healerに焦点をあてた面白い芝居(ブライアン・フリール)なんかもあった。宗教と芝居、この二つは何処にもある



注釈学の出発をもつニーチェは自分が神を殺したのだと告示するのは、宣長が神をカミと読んだ思想を喚起するが、勿論、近代主義が説明する実証主義イデオロギーの矛盾はここに無い



だからわたしは教育というものを信頼していない。


ヘーゲル以後、[…]かつて西欧において最も高度な思考であったものが今や教育の領域で最も価値のないものとみなされている活動に転落してしまったという事実が、恐らく哲学が既にその役割と機能と自律性を失ってしまったことを証明しているといえるでしょう。」ーフーコ『文学・狂気・社会』


『男の敵』は、1935年のRKOによるドラマ映画で、1922年のアイルランド独立戦争を背景としている。原作はリーアム・オフラハティの小説『The Informer』。 『暗殺のオペラ』のベルトリッチはアイルランドの裏切りのテーマに関心をもったと語っているが、裏切りというのはアイルランドの独立のまえに存在しなかった。ダブリン時代に、IRAとM 16の間で両方を百回ぐらい裏切ってとうとう自分でも一体どちらのスパイなのかわからなくなっていた男の裁判があった。それで、アイルランドにおける労働者階級出身の劇作家の「ダブル・クロス」という芝居が気になりはじめた。もうどんな芝居だったか忘れたが、階級闘争よりも「ダブル・クロス」を選んだのは、古典主義時代の<二重化>に意味ある脱出があると考えたからかしらなどとフーコ『言葉と物』を読んでおもうのである。人間のうちに発見された歴史性が炸裂したところで外部の思考できないものこそ思考にとって不可避な他者である


なぜ中国と日本とは近代の路において出会えないのか?不可能にする分散している近代を問わなければ。再び「自身を語る」こだわりをみせるときか?否、他者との関係に集中するときだ




畜生!35年後、「勿論所謂公式参拝です」(1985)が正に望む通りになったー国家神道の事実上復活と軍国主義の復活。民営化の意味も明らかにー格差と経済徴兵だったのである


図書館は、その厳密な中心が任意の六角形であり、その円周は到達の不可能な球体である。ボルヘス


‪7年まえのこと、先ずダブリンにおけるカオスとの出会いがありました。だけれど、カオスの後に生きておらずただコスモス(秩序)の後に生きていると思わせてくるのが日本なんでしょうかね。‬


わたしは、ダニエル・ブレイク」のケン・ローチ監督の映画

スコットランド人はカレーがほんとうに好きかわからなかったのですが、デリバリーで持ち帰ったあの毒みたいに不味いカレーを食べるときは英国から独立を勝ち取ったインドを食べるんですよ、沈黙しないように自分の身体を作りなおしている


カオスの後に生きておらずただコスモス(秩序)の後に生きていると繰り返し思わせてくるのが日本なんですかね。高田馬場の夜、わたしはまずいコーヒーが好きだと言ったら若者が驚いたようです。プルーストの場合と同じで(笑)、不味いコーヒーは無意識となったダブリン時代の映像を思い起こさせてくれるのですから


ジョナサン・スウィフトライプニッツ形而上学とその言語を批判した。今日生きていたら京都学派を再評価する文化人を批判するだろう。バカがバカを称えていると


Est-ce la même chose, strictement la même chose,en peinture ? En effet, ce n’est pas le point qui fait la ligne, c’est la ligne qui emporte le point déterritorialisé, qui l’importe dans son influence extérieur 

ーD=G Mille Plateaux


外部の思考は単純だろうか?単純かもしれないが、このわたしにかんしてはそれは関係の外部化という他者へ逃れ行く比類なき単純さなのだ


「絵画でも同じだろうか?まったく同じことが当てはまるだろうか?なにしろ点が線を作るのではなく、逆に線のほうが脱領土化した点を巻き込み、外への作用に駆り立てるのだ」

D=G ミルプラトー


アジアにおける政治でもまったく同じこと。点は近代の起源と反近代の起源であるが、点が線を作るのではなく、逆に線のほうが脱領土化した点を巻き込み、外への作用に駆り立てる


馬鹿馬鹿しい。選挙に勝利しても選挙前と何も変わっていないのでは?ボリス・ジョンソンは彼が何も知らないアイルランドについて嘘を言い続けていると指摘されるその根拠は何か?



BBCが明らかにしているが、レイプされた市民を公安が監視していたという。なぜ?もし本当ならば、ほかでもない、安倍の警察国家の犯罪ではないのか


選挙に勝利しても選挙前と何も変わっていないのでは?ボリス・ジョンソンは彼が何も知らないアイルランドについて嘘を言い続けていると指摘される。平和が壊れると北アイルランドの住民が大変心配している


自由が丘の喫茶店の隣でお母さんが息子の太郎(17歳)の将来をおばあちゃんに相談しています。太郎はアメリカにいるときは自分をアメリカ人と絶対に思っていません。日本にいるときはアメリカ人とおもっています。と、おばあちゃんはききます。「何人や?」お母さんが答えます。「だからさ、インターナショナルや。太郎はな、東京では変な関西弁を使っている自分は一人ぼっちだと感じている」。おばあちゃん「帰ればいい」。お母さん「家族バラバラなったらママ寂しいで...」


F・W・ムルナウが監督しフラハテイーが撮影した『タブゥ Tabu』(1931年) は映画史に残ることは異論がないだろう。両者ともアプローチはちがうが当時の人類学的視点をもっていた。映画をみると、島の共同体間の交易を西欧人が請負っているだけではない。掟破りにたいする刑の執行も彼らが行うのである。これは何を意味するか?囲い込まれない海の開かれたネットワークも、西欧の権力の介在無くしては島々はその掟とともに成り立たなったという事実である。島の掟は自律的にあるようにみえても、それは西欧権力が維持している西欧の掟なのだ。映画史の観点からいうと、映画は西欧が南島というものを成り立たせる人類学的視線がいかに構成されてきたのかを示しまったのだ。

(『タブゥ Tabu』から、天皇を語っている吉本隆明の”人類学的視点”の構造主義を考えてしまった。吉本は、西欧の権力が全く無い時代に遡って、国家日本の現在に「南」からきた起源を投射してみせようとしたようだが、「南」を繰り返す透明なあの言説は何だったのか?たしかに思考の連続性を拒んで近代とはなにかを問うことができたかもしれないが、「南からきた」というとき、そこで起源をいう西欧他者の視点が介入している複雑な関係を隠蔽してはいないだろうか。常におもうことだが、近代を批判するためには、それほど遠くに遡らなくてはならないのか?そうして近代批判が成功しているのか?難しい問題である)


北アイルランドが迷惑におもう無知が語る英国の教養に違和感を感じる。カント的人格のヒューマニズムに結びつくよりは、明治初期啓蒙主義みたいに、功利主義が喋るようにも聞こえる?「恐怖」が何でも喋て議会をぶっ壊す大英帝国の教養 v.s. 「希望」が説教するソーシアリスムのリベラルエリートの専門


好奇心で書くことですが、朱子によると、動物にも理はあります。天から与えられた心の方向づけ、天命も不完全ながらあります。(人間の場合と比べて理が不完全なのか、気による運動が不完全なのか議論あり)。しかし瞑想によってさとることができるかはわかりません。心即理陽明学がかんがえていくことになりましたが、陽明学は動物に心があるとか無いとかの議論はありません(無いでしょう)。ウィットゲンシュタインはどうかんがえましたかね。人間中心世界に穴を開けるためには動物は人間とは別の心をもつとしたいところです。


神話と現実との融合はヨーロッパをヨーロッパとして成立させるものである。古代ギリシア叙事詩の神話的部分は現代世界においては他国から領土をとりかえしてやるという無意識を構成している。女性議員とマイノリティーグループはボリス首相が戦争語彙を以て恐怖を煽ってきたことを問題にしてきたのである。‪ ‪おそらく過去は死に切ったものだろう。しかし『イーリアス』であれ『万葉集』であれ、タカ派ピュリスムの政治家達は現在の自分達に都合よく、近代がこしらえた「古代」像を利用してくるのである‬



どん底とはなにか?どん底というのは、どん底からどん底を逃したいー集中した\分散したパノプティコンに対して抵抗する文学的拠点に向かって。演劇はどこにもあるようにどん底もどこにおいても成り立つ。マイナー言語としての外国語をもつのもどん底をもつことではないだろうか。どん底は日本語から母国語を逃す。母国語は意外にもひとつではない。そのとき近代日本語が仰ぎ見る英語とかフランス語のヨーロッパ語に限らず、近代日本から前近代として見下した漢文エクリチュールもマイナー言語を構成する。われわれは仰ぎ見る他者と下に見る他者が必要なのだ


今年は、30年ぶりにフーコ『狂気の歴史』を開いて、ヨーロッパ近代におけるデカルトの「思考するひと」を考えた。宋代における朱子の「覚醒するひと」は中国独自の近代ー近代的人間ーのはじまりを考えさせる。だが近代デモクラシーの始まりについて東西別々に考えるのは問題がある。近代デモクラシーはルネッサンスから500年間かかったフランス革命から始まると考えるべきだろう。独自の近代があったからといって独自のデモクラシーが成り立っていると主張する権利をみとめることができないとおもう


裁判官は罰したいナショナリズムの世論を気にしている。ネオリベの時代の刑法はどの罪を買ったら罰がいくらか示すチラシ。買った覚えがなければ払いたくないので逃げだすさ


最近米国で話題をよんでいるヒエラルキーとネットワークの関係を考察した本の内容は詳しく知らないけれど、「近代」におけるネットワークの水平的平等の思想だけが平等の思想ではなかった。「前近代」の思想においても、理念的には、ヒエラルキーの思想も垂直的平等の思想をあらわすものがあった。現代における知のヒエラルキーは、言語を中心としたネットワークの現実に適用される認識と、対象的構成を目的としないが認識の枠組みを与える認識のための判断があるようにおもう。判断というのは、直に「使えない」が、 500年間の美術史が証言するように、常に別の可能性を考えるために不可避であった。垂直的平等ではあるが過去に構築された普遍(そういうものがあったとかんがえてみるのである)を考えるのは判断の領域であるー憲法判断における場合のように統整的に解釈の解釈をするが実定的に判断を構成しない。近代主義ユートピアからみると、これはあまりにポストモダン的な権力を関係に還元した折衷主義であると文句を言われるかもしれないが、‪期待外れに終わった近代の終わりにおいてヒエラルキーとネットワークの関係をあらためて考えるとこういうことがいえるのではないかと‬


そもそもフランスを舐めすぎていた。野蛮な国は裁判の文明が無いとか言われないうちにレバノンに行ってどうかわたしどもの国のお裁きを受けていただけませんかとお願いしたらいかが?


しかしながら宋君は自己の仏国的共和政を彼に承認せしめて彼を栄誉の中心たる意味における大総統たらしめず。かえって孫君の米国的理想にまで譲歩し総理を置きて責任を負わしめず大総統自ら権を握り責に当たるところのものを許容したり。(北一輝 支那革命外史)



袋小路か、それもよかろう。


イギリス保守党は常に大きな戦争を望んでいるといわれます。もはや自分達にその力はないから米国にくっついていって植民地を取り返したいと願っていて、中東はこれをイギリスのトラウマの意味で「心の病」とみているようです。‪確かに力はありませんが、米国は単独では戦争できなくなった時代です‬。こんな時に、非常に不安定なキャラのボリス首相が圧勝しました。国民は安定を望んでいたのにその通りにいかないかもしれません。現在はイギリスから遠く離れて正直空気をよく読めませんが、 労働党コービンが政府はアメリカとイランの両方にたいして‪距離をとれと言っているのはその通りだと思います‬。



推敲中


ロンドンのバービカン・センターで、The Bride and the Bachelorsというテーマの、Duchamp回顧展。The Nude等の絵やオブジェに囲まれた中央ステージで六十年代にケージとカニングハムと協働したダンスパフォーマンスをみた。ダダの精神の結晶、「泉」は詩そのものに変容し、単一のモダニズムとの決別を謳歌していた。前置きが長くなったが、ところで、DuchampとBlake、この両者は、私の中で繋がる。Blakeの絵は、絵として自立してはおらず、絵でないものと、即ち詩と関わりをもつものである。ポストモダニズム的に、たえず外部に赴くのだ。

ここで、ポストモダニズムの実体の概念とは、

α、一でもなく多でもない、固有名の如く単独的に現れる概念。

β、生成消滅する実体。

γ多数の参照系とかかわり合い外部性に依拠した実体。


総括すると、80年代イギリスのマルチカルチュアリズムは、この概念の現実化としてとらえられよう。マルチカルチュアリズムは平和時においてこそ、最大の収穫を得る。しかしそれは、国家が促す戦争(アフガン・イラン戦争)によって最大の損失を被ってしまったのだ。なぜなら、マルチカルチュアリズムは本質的に帝国主義的国家と決別するものとして存在しなければならなかったからだーポストモダニズムが単一のモダニズムから決別するつもりだったように。


‪自由が丘の本屋にならんだ新刊本を見渡すと、歴史修正主義がたたえる明治維新の近代を批判する本が一冊もなかった。危機感のない本ばかりではないか。どうしてこんなことになっているのだろうか?と、昨年末の飯田橋における『論語塾』の中国人留学生を交えてのコンパでの話しあいのことをかんがえた。香港の若者は社会のネガテイヴな像をはっきりもっている。比べると、全共闘的運動は、自己自身と大学に属する自己の否定を行ったが、社会のネガテイヴな像をはっきりもっていなかった。結果的には阻止しなければならなかった大学の資本主義への全面的従属をもたらしたという指摘が子安先生からあった。なるほど、社会のネガテイヴな像をはっきりもっていないと、資本主義を否定する運動が資本主義を推進してしまうということが起きるのが近代なのかもしれないとわたしはこれについて自分自身の経験をかんがえながら話をきいていた。リーマンショックの後、サッチャー主義と決別できないようにみえた労働党政権のG20主宰に抗議する中央銀行広場前の占拠に加わったときは、この運動のイメージがはっきりしておらず、「ここは天安門前広場だ」というひとたちもいた。議会にではなく中央銀行に抗議する新しいタイプの運動だったから、こういう場合は常のこととして過去からそれと類似するものを探すのである。このときだけは世論はデモを支持した。労働党政権が倒れた後、保守党政権のあり方を心配したが、ヨーロッパの新しい普遍主義の再構成の模索を邪魔する極右翼Brexitに食いこまれた知の反動にこれほど権力を持たせてしまうとは考えることができなかった‬



ダンテの外部は何か?朱子の外部は何か?天国と地獄の間にある「煉獄」、人間と猿の間である「東夷」が12世紀に発明されたー二項対立を脱構築的に解体する思考の形式として?



‪ 柄谷のようにシェークスピアの英語とかデカルトのフランス語とか、近代の始まりにおける地方言語のもつ意義をいうのならば、煉獄の魂を浄化する地上の人々がする祈りは地方言語(イタリアのトスカーナ語?)だろうし、ここでヨーロッパに限定する理由はなくて、孔子が望んだように東の海を渡ってくるならば東夷の地方言語(京都?鎌倉?)をきくことになるでしょう(その場合、普遍言語の文法性からの規定を無視できないとおもう)


国家神道を再定義することによって、靖国神社としての日本人という教説に絡みとられて伊勢参拝するようになった人びとに只一言だけ。国家神道がアジアで2000万人を殺した事実をどうして忘れるのですか?




MEMO

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「祀られる神」のほかはだれもはいることが禁じられている部屋は果たして存在するだろうか?禁止を破って部屋に入ったら、そこに「祀る神」がいたというんだね。そこでこそ「私」無き「公」の「大御心」が成り立つ。だがこの話はおかしくないか?だって部屋にはいるまえにその部屋から「祀られる神」がこっそり脱出していたかもしれないのだから。(「祀る神」を見たと勝手に言っているだけの話なのさ)。ここで、「私」だけの部屋とともに成立している言説「祀る神は祀られる神である」は、外部の思考をによって批判的距離をとられている点が大切



 ‪「子曰く、吾十有五にして学に志す。...五十にして天命を知る。」 はフランス語ではこう訳される。ちょっとのぞいてみる。


Le Maître dit; < Á quinze ans, je m'appliquais à l'étude. À t ans, mon opinion était faite. À quarante ans, j'ai surmonté mes incertitudes. À cinquante ans, j'ai découvert la volonté du Ciel. À soixante ans, nul propos ne pouvait plus me troubler. Maintenant, à soixante-dix ans, je peut suivre tous les élans de mon cœur sans jamais sortir du droit chemin.> ‬

‪ー Confucius, Les Entretiens ‬


現在の高齢社会では60歳か、「五十にして天命を知る。」 

À cinquante ans, j'ai découvert la volonté du Ciel. この命題をどう理解するか?フランス語はどうしてこの訳なのかやはり注釈が必要だが、フランスのシナ学の資料がない。江戸時代の注釈をみよう。

伊藤仁斎によれば、「天とは、これを為すことなくして為し、命とは、これを致すことなくして至る。皆人力の能く及ぶ所に非ず。」という。訳された子安氏のご説明によると、「仁斎は人事を尽くしてもなお人生上に見出す結果を天命として順受すべきことをいう。」

ここで私は的外れなことをいうかもしれないが、アジアにおけるコスモスポリタンの「天と物」(朱子)にたいして、なにか、京都の市井の人における「天と(見上げる)人」を表象できるというか



Wir sind nichts; was wir suchen ist alles.

 We are nothing; what we search for is everything.

- Friedrich Hölderlin


オペラ『スペードの女王』。存在しない‘モスクワのヴィーナス’をもとめて、依拠していた世界全体が消滅してしまう。プーシキンが書いたが、ヘルダーリンをおもう



無限<方向づけできない>は、

世界<x,y,z,>を以て

表現できるものではないけれど

cine-psychos-mos <x、y、z、t1、t2、仮面ε、仮面ψ>

ならばなんとか表現できるかもしれない。それはセリー(系列)

集まるが、雑じり合わない

単純に、相い続いて絶えない


「天から物がうまれ、天は物に性をあたえる」と朱子が語りはじめた同一性と差異をめぐる形而上学は、なんだろうか、昨日の子安氏の講座は私の思考を揺さぶった。差異の領域(日本)にはあらわれない、と同時に、同一性の領域(中国)にあらわれることがない。だからこそ、同一性と差異についての物のめぐる方は現代の中国と日本とが出会える結び目をなす、エクリチュールが可能にしてくれる、外部の思考ではないかーただしこの垂直的平等性を民の立場において水平的平等に転回していく斜線を書くことが必要である(オリエンタリズムの「明治維新の近代」にたいする批判的検討)ー。まだはじまったばかりなので、わかったようなことを言うべきではない。楽しみに、これから「理気論」「鬼神論」に続いて「性理学」を学んでいく。


作文中

同一化を欲しても天との距離は消せないが、あたかも距離がないかのように、天命が人に存在してくる、と、天命が表象されていたことを憶測し思い描いている。さて17世紀の思想からすると、朱子の「天命」の宇宙論的理解は大き過ぎた。古学の仁斎は「天命」を理念的道徳の地平の内部に置く。五十歳というのは、そこではじめて可能となる有限者からする己の生の自覚である。「これしかないし、あるいはこのようにしかならなかった」(『思想史家が読む論語』)。他方で、「学」を現代の感覚で国家の(ヒエラルキーを作り出す)学校教育への依存とするのは卑小すぎるのである。17世紀にとっては、「学」は、恐らく時代と対等の大きさをもった批判精神としてあったのだから‬


この世は国の最高権力者が最後まで幸せいっぱいに生き続けるのだろうし、生きて欲しいと願っていた方が殺されてしまうのです。嗚呼人間は悲しむことしかできません


サッチャー国葬は民営化で」とケン・ローチは言った。その通りだ。彼女の魂はこの言葉にすむことになるー忘れることがなければ。国葬の日に棺に向かって人々が放つ怒りの言葉を直に聞いた。アフリカ系イギリス人にインタビューしてそも発言をYouTubeで流した。観光客だけが集まったような国葬。マジョリティは死者への弔いだけで、称える人はいなかったとおもう。中曽根の国葬はどうなのか?比べると、中曽根政治に抗議しなかった当時の異常と言われても仕方ない若者達が現在社会の中心にいて、恥ずかしくないのか中立的に彼を称えている者も相当にいるらしい。だがこの私も抗議行動していなかったではないか


「文化系」は、多分「理系」が数式を考えるような態度で、書かれた言葉を読むことができないのではないか。言語のなかで、言語によって、言語に沿って、言語を読んでいるときでも、言語の背後ー書いた人のドロドロとした立場をどうしても考えてしまうし常に考えなければならないのは常に憂鬱である。


seq1 平滑空間あるいはノモス、これと条理空間とのちがい。ーー平滑空間をみたすもの、すなわち身体、また身体と有機体とのちがい。ーーこの空間に配分されるものとは、リゾーム、群れ、そして多様体である。――(下)【原書の裏表紙にかかげられた跋文】


‪みんな人間を嫌っているかといえばそんなことはない。蓋し死んだ人間だけが褒め称えられる。生きている間に関わることは危険だしね、自分に影響しないものなら愛してもいい。人間とは芸術家のことだ‬


こんな真夜中に、渡辺一民氏が言っていた『言葉と物』のフーコの書き方をおもいだした。忘れないうちにメモしておこう。一文一文が緻密にできている、どの一文も曖昧だけれど、全体がわかってくるのがスゴイと。多分、思考の柔軟性を可能にする、投影面が沢山あってそれらが互いに干渉しあっているのではないだろうかとわたしは考えるようになった。おそらく戦略だろう、マルクスの物の見方を批判的に相対化していくやり方なんだ。80年代以降のゴダールの映画においても、見つめてくる本みたいに、曖昧な観念と全体における明確なイメージとが同時に進行していくというかね


私がどうしても絵にしなければならぬという感じで、神(シン)と墓にカミも遺骨もない宣長はを二重化した?『直毘霊』の文は恰も顔の下の不可避の仮面(漢文)から見つめてくる眼差し


英国選挙がヨーロッパにどんな意味があるのか分析されるだけで、日本にとっての意味を語るものは一人もいない。つまりこれはアジアにおけるEUヨーロッパの可能性が消滅したのだ


サブカルにはまったく興味がないが、サブ集合は気になる。‪ < p, o , e , m, t , h , e , a , t , r , e > ‪


「来年決着」って、ヤバくない?東京五輪を契機に、買収された有権者と共に「桜をみる」会から、「大御心」とともに「桜をまもる」会になっていたりして...


‪『言葉と物』第三章は’表象‘である。このなかで「秩序」と題した一節の書き出しは、思考の揺れを考えようとする言葉である。この文はスゴイ!フーコにおいて、「秩序」に先行するのは<揺れ>である。‬


‪「歴史一般にとって、不連続のあり方を決定するのは容易ではない。思考の歴史の場合、それはおそらくなおのことそうだ。思考の歴史の場合、それはおそらくなおのことそうだ。分割線を引いてみようというのか?だが、あらゆる境界線は、無限に流動する総体の恣意的な切断にすぎまい。一つの時期を切りとろうと望むのか?しかし、二つの時点において対称的な切断を行い、両者のあいだに一個の連続的で統一ある体系を出現させる権利が、そもそもわれわれにあるのだろうか?そのような体系が成立すること、ついでそれが消滅し崩壊すること、それは何に起因するのだろうか?体系の実在と消滅とは、どのような体制にしたがいうるのか?体系の内部に整合性の原因があるのなら、この体系を忌避しうる外的要素はどこからくるのだろうか?思考は、みずからと異なるもののまえでいかにして身をかわすことができるのか?一般的にいって、ひとつの思考をもはや思考しえないとはどのようなことであろうか?そして新たな思考を創始するとはどのようなことであるのか?」


普遍言語を方法化したジョイスは普通の人々の不完全な言葉にこそ<アイルランド>があると考えた。その文学があれば、誰も<本物のアイルランド>へ行く必要がないじゃないか


未完成

映画と呼ばれていたものは、運動によって成り立つイメージのあり方と、時間によって成り立つイメージのあり方があるといわれてみるとなるほどぴったりくるものがある。何にしても、最初から、本を読む人が映画を見ることの意味が問われていたのだから、読むことと見ることの関係が証明されなければならない。証明というとなんか大袈裟だが、映画を語るとき、文学者の思い出してみる視点しか言われてこなかったのは本当だ。映画のために映画に代わって語るならば、考えるようにと見ることの意味が言われなければ...。知識人が成り立たないといわれるポストモダンの時代にあって、たとえ知識人は哲学者でなければならないと言ってももう仕方ないとされても、映画を見る人は哲学者でなくちゃいかんと言ってみようというのである。映画における思考の形式を文学などにゆだねることはできないと言ってみようか。映画は何も恐れはしなかった、他のものも自分自身も。映画は時間から守られていたのではなく、時間をまもっていた。レマン湖は、20世紀と同じ大きさをもった映画が横たわる墓地...

映画において、先ず映像があるという。映画が提示する運動について語られる言葉だけれど、そこで、運動それ自身ではなく、本を読む人が見る運動のあり方が問題とされている。もちろん運動と、映画において見られた運動との間には共通なものは存在しない。映画館の暗闇のなかでまるでスクリーンの代わりに本を読む人は論理の映像(住処)しか思い出せない(否、思い出すことができるというべきではないか、わたしのように論理の映像すら思い出せなくない愚鈍なものは...。)だけれど論理的映像(住処)しか思い出せないのは、運動を考えるようになる映像(旅)をもたないことによるのかもしれない。常のこととして、映画の存在については映像的論理が思い出されるだけで、(論理のほうへ消滅し切ったのか?)、こちらに向かって映画が思考する孤独が考えられることはなかった。と、私はそう語る。否、そうではない。まったく反対だ。思考が先行する。要請されている。思考が先行するとしよう。そこから、思考が自ら関係するもの(時間)をさがす外への旅によって、時間の映像(写真)が絵(空間)にメタモルフォーゼできたとしたら、思考しようとする物を考えることがはじめて可能となる。と、考えるために映像が必要だったと語ることがゆるされるか。こうしていつも痕跡をまえにして、繰り返される。考えることと映像の分裂を解決できないままに、光の世界の無関心に放りだされてしまう。オーストラリアにある洞穴の時代からずっと呟いている...


ジョージ・オーウェル


1943年1月


老いた者の狂乱を私に許したまえ
作り直さなければならぬのは私自身
タイモンやリアへ私がいたるまで
あるいは、かのウィリアム・ブレイク
壁を打つ者
真実がその呼びかけに従うまで



 Tyger! Tyger! burning bright
 In the forests of the night,
 What immortal hand or eye
 Could frame thy fearful symmetry?
 
 
 
 虎! 虎! 赤々と燃える
 夜の,いくつもの森で,
 どんな不滅の手でも目でも
 汝のおそるべきシンメトリーをかたどることはできまい


つまり人間が動物に<なる>のは、なんらかの手段と要素を使って、動物の微粒子に特有の運動と静止の関係に組み込まれるような微粒子を放出する場合にかぎられる。D=G


‪大変興味深い脚本を読まさせていただきました。どうもありがとうございます。戯曲を読んだあと、公家さんからのsuggestion を参考にしつつ、絵を完成させました。‬


‪戯曲を読んでまず考えましたことは、「一般的にいって、ひとつの思考をもはや思考しえないとはどのようなことであろうか?そして新たな思考を創始するとはどのようなことであるのか? 」というフーコの問題提起です。‬


‪ヨーロッパはひとつの思考ー新しい普遍主義の「理性」ーを模索しているのですが、近代(同化主義、開発、戦争)のもとでは思考しえないという問題を戯曲が証言しているドイツの現在から考えました。(極右翼によって非常に悪い形で模索しなければならなくなったという問題は日本と共有する問題だと思います)‬


‪また戯曲を読んで考えたことは、ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨしている、まだ暗闇の曖昧さのなかにありますが、「私たち、誰でも、何人でも」を為す開かれたネットワークの可能性についてです。それは詩の想像力でなければ成り立たないというか...‬


‪絵の真ん中の人物ですが、青い地球を眺めるアルロと傍らにいる何かは、ウィリアムブレイクの想像力によるものなのですね。‬

‪ブレイクについては、小森さんがFBの投稿で書かれていましたが、わたしもブレイクは大江によって知りました。大江は思考不可能なものを思考するブレイク像を打ち出したとわたしはおもっています。‬

‪それからアイルランド時代で考えたイエーツとジョイスのブレイク。ロンドン時代のロマン主義のブレイク、そしてコンテンポラリーアートの先駆者として評価されようとしているブレイク。‬


詳しくはないのですが、四年間は、ブレイクが一時期すんでいたハムステッドヒース付近にいましたので、ブレイクの散策を考える毎日でした。絵の中で白い線で構成された線全体がブレイクの思索の軌跡です。これが「母親」が若者たちを抱いているように見えたらいいなぁとおもっています。‬


‪戯曲はドイツを背景としたものですが、イギリス化(ネオリベグローバル化)していくなかで若者たちのもつ疎外感のことは非常によく理解できました。公家さんから、若者を描くのなら、ひとの眼が気になって出られなくなった若者のイメージを是非描いてほしいというアドバイスを受けたので、『ラリー』の見学のときにスケッチしたものを利用して描きました。‬


‪公家さんがお選びになった元となった絵は、ブレイクを考えたロンドン時代に描いて未完成のままだったのですが、十数年たって、おかげさまで、なんとか完成しました。‬


‪三月の皆さんのお芝居『揺れる』から学んで、ブレイクの理解を深めたいとおもっております。どうぞよろしくお願い申し上げます。‬


映画の孤独とはなにか?


“バベル”の災厄以降、他者との出会いが不可能になった。過去からやってくる他者である映画と出会えなくなったということについてちょっとかんがえてみたい。映画は生産されなくなったから映画が消滅したのではない。むしろきょう映画は生産されている。問題は、あまりに沢山の映画が生産されたこの氾濫の中で、考えるために見る過去の映画が消滅したということだ。このことは、一国民主主義と自立的国語の近代以降、新しい漢字を量産していく体制のなかで、「前近代」の思考を可能にしてきた漢字エクリチュールが消滅し始めた事態と比べられるかもしれない。わたしは近代に絶望している。なぜか?近代とは生産の永久革命だといってもよろしい。つまり映画の運動はこの永久革命に従属してきた結果、映画の消滅が必然として起きたのである。イメージの単純な増加によって映画におけるバベルの塔への投射は崩壊することになったと言わざるを得ない。2000年になって、時間をまもってきた大切な映画の名は忘却されることになった。と、われわれは映画はキスのイメージであふれていたことに気がつくのである。映画の孤独は忘却にキスするしかなかったと。百年後の人々は映画の名を忘却してしまったわれわれをこう思い返すかもしれない...


天皇ファシズムの後に生きておらずたんに明治維新の近代の後に生きていると考え、また日中戦争の後に生きておらずただアメリカとの戦争の後に生きていると思っているわれわれの問題



 ‪ ‪ ‪  ‪田辺元の「種の論理」は普遍主義を超える本物の類と個が媒介において成り立つというが、媒介とは類と個が死にに行く戦争万歳のナショナリズムでなければその正体は何だろう


危険なことに、ボリスはBrexitを対独戦にたとえてきた。第二次大戦に大勝利した英国を思い起こせというが事実は乞食だった(ケインズは米国に行って金をくれと請うた)


「美しい映画だとおもう」。映画館のなかでいきなりわたしの真横で喋りはじめたひとがいた。アンナカリーナだった。びっくりした。いつの間にそこに立っていたのだろうか、暗くてわからなかった。そのときは新しいプリントの『アルファヴィル』上映のときにダブリンに来ていたことは知らなかった。「ゴダールの新しい映画もみている」と聴衆に答えていた。アンナカリーナといえば、わたしは『男と女のいる舗道』でのこの場面ーカフェでアンナは隣にいた哲学者と語るーが好きだった。言葉を語ろうとするとどんどん意味がなくなっていくみたいだ。語るためには語らなかったこと、死を通過しなければならないというようなことを互いに語っているんだね。いま改めてその意味を考える。このわたしもわかっているわけではないけれど、形而上学は死を問題としたのは、形而上学は自ら語るためだったのではないか。哲学者とともにアンナはいきている。死んだと考える必要がないじゃないか...


言葉を語るとどんどん意味がなくなるから、語るためには語らなかったこと、死を通過しなければならない。形而上学は死を問題としたのは、形而上学は自ら語るために必要だったのだ


『アルファビル』のこの場面は、30年後の『映画史』のラングをひく編集において冥界の蝋燭達(魂達)の光景が重ねられる。ホテル廊下をグルグルしているそこはまるで皇居だ。祀る都市であり祀られる死の都市「トーキョーラマ」ー天皇の俯瞰する視線に従属する日本知識人達の住処ーを探偵レミー・コーションが破壊してアンナ・カリーナを救い出す未来をわたしは想像している...


パリで小さな仕事があったのでダブリンにあるフランス語学校に通ったとき、会話のレッスンで、「現在活躍している好きな女優はだれですか?」と聞かれたので、答えにこまったが(わたしは女優に興味がない)、一応、「アンナカリーナ」といったら、「あなた、アンナ・カレーニナは昔の人でいま生きていないのよ」と女性に言われてみんなから笑われてしまった。発音も悪かったのだろう、もう一度、少し説明して映画の女優であるその名をはっきり言ったつもりだったが、またゲラゲラ笑われた。「アンナ・カレーニナはロシアの実在しない人なのよ」と。先生からアンナカリーナについての説明の言葉もあったが、アイリッシュはフランス映画に興味がない。文化人達をはじめ彼らの関心はロシアのトルストイなのである。


「神(=人間)は死んだ」のニーチェの外部は私はわかっていない。フーコがいう先験的=経験的二重体(=人間)が成立する前にあった古典主義時代の思考に答えがあるかもしれないとおもう。同一化に対してどうしてもわきおこってくる差異化の方向に線をひくこと。「近代」を相対化する為に「前近代」と彼らが侮蔑的に名づけたものを呼び出すこと。ブレイクの詩をひく

 

Tyger! Tyger! burning bright

In the forests of the night,

What immortal hand or eye

Could frame thy fearful symmetry?

 

 

虎! 虎! 赤々と燃える夜の,いくつもの森で,

どんな不滅の手でも目でも、汝のおそるべきシンメトリーをかたどることはできまい



イラン革命は文字通りの意味での革命ではない。あれは立ち上がり、再び立ち向かうやり方なのだ。これは我々皆に、ただしとりわけ彼らに、あの精油所の労働者、諸帝国の果ての国の住人にのしかかっている恐るべき重み、全世界の重みを取り除けたいと思う素手の人々の蜂起なのだ。-フーコ『反抗の神話的指導者』


近代というのは、泥濘のなかを死に場所もなく、どこまで、目的もわからず悪路を往っては帰り、また出かけては戻りして疲労する兵士の姿に喩えられる。終わらせなければ終わらない


 ‪21世紀においてもっとも興味深いのは、思想の歴史の歴史ーたとえばヨーロッパ思想史とアジア思想史との比較を可能とする物の見方の歴史ーではないだろうか。Keyとなるのはフーコがいう「バベルの災厄」である。「バベルの災厄」はヨーロッパだけでなくアジアにもがあった。四書とそれらを再構成する朱子学を崩壊させたのが宣長による思想闘争ー「神(カミ)とはなにかわからない」ーだった。「バベルの災厄」以降、言葉(パロール)を語るとどんどん意味がなくなるから、語るためには語らなかったこと、死を通過しなければならない。オリエンタリズム批判とポスト構造主義が明らかにしたヨーロッパ思想史とアジア思想史との交差点はここであるーそこで形而上学は死を問題としたのは、形而上学は自ら語るために必要だったことをかんがえはじめたのだった‬。思想の歴史の歴史は、ポスト構造主義を英語をよんだ漢字文化圏の言語支配者の中国の学生たちがいわばマイナー言語における江戸時代のポストモダン孔子を考えることによって展開するのだろう。


ジル・ドウルーズが問題提起した「マイナー文学」における遠くにあるゲーテの言説的文学にカフカの侵入したイデッシュ語とは何者か?ロンドンのユダヤ人から習った。「耳は何というの?」「mimi 」。そうなんだ、吃驚。「目は?」「me 」。「ちょっとあなた、おちょくるのをやめてよ!」「おちょくってないよ。だってイデッシュ語はね、根無し草だから、どんな言語にもすむことができるのさ。僕とのあいだに存在する言葉なんだ」


‪講座「明治維新の近代」によって、関係の外部化ー日本近代と中国反近代という二つの点(起源)の間をひく線の外部化ーをわたしはだんだんとかんがえるようになってきた。あと二回



フィネガンズ・ウェイク』からみると、現代ナショナリズムを形成しているのは近代国家が無かった伝統と保守ではなく、一国民主主義と一言語的自立主義の永久革命へ行く言説である


『ザ・デッド』でスタジオの中に完全なダブリンを作ったハリウッドは『フィネガンズ・ウェイク』の映画における継承だろう。アメリカというのは、自身は一国的民主主義と一言語的自立主義のナショナリズムをみとめない一方で、他国におけるナショナリズムの代わりを完全に作りだすことが可能だとおもう


「戦没学生の手記」を無意味にするなとおもう。「太平洋戦争」(という言い方)が隠蔽しているもの、日中戦争の後に生きておらずただアメリカとの戦争の後に生きているといつ迄も疑わぬ異常なわれわれの問題。非合理なことに、「日華事変」は日中戦争ではないとしているから、領土問題は戦争によってしか解決しない点を学ばない。どうしていまだ15年間の日中戦争を戦争として認識できていないのかは、明治維新の近代の出発に遡ることである。明治維新の近代は終わらせなければ終わらない。田辺利宏「泥濘」をひく。


寒い泥濘である。


泥濘は果てしない曠野を伸び


丘をのぼり林を抜け


それは俺たちの暗愁のやうに長い。


・  ・・・・


愛と美しいものに見離されて


ただひたすらに地の果てに向い


大行軍は泥濘の中に消える。


ながい悪夢のやうな大行列は


誰からも忘れられて夜の中に消えるのだ


植民地化するヨーロッパは植民地化されるヨーロッパである。これは一考に値するとおもう。一国民主主義と自立的一言語主義の見方が成立しているその奥からは、帝国主義の時代のヨーロッパにおけるアイルランド植民地化の意味がみえない。だからそこから今日のナショナリズムは理解できないでいるのではないかーヨーロッパの人格が支配された恐怖も、アジアの人格が帝国日本の天皇の「大御心」(その公的性格は国民主権の代わりであるとされた)に従属したその恐怖も


一国民主主義とは、大逆事件の後に確立した日本帝国主義満洲事変に向かう統制を「大正デモクラシー」などと呼んでこれを理想化すること、自立的一言語主義の見方とは「国語」という思想を自明視してしまうこと


フレームから考える映画の方法としての神話的思考

‪映画というのは、方法としての神話だ。フレームは操作による(世界の)変形だ。フレームのなかに世界をとらえようとすると、世界は全体であると同時に枠づけられた世界は部分である。全体は全体である。全体を部分にすることができないのだから、これはフレームにおける矛盾だ。(スクリーンへの投射はこの矛盾を隠蔽してしまう。) そこでレヴィストロースが言うように、フレームに起きる矛盾に仮面を被せてみよう。何がみえてくるか。カオスがコスモスに先行していたのだ。ロゴスはギリギリ要請されるとしても、統一などできやしない。フレームから考える映画の方法としての神話的思考は、デリダ脱構築論、ドゥルーズリゾーム論‬とおなじ物の見方をなすとおもう

思想史についてー思想史アマチュアが書きました

講座『大正を読み直す』のときに彼の名前をはじめて知ったとおもっていたが、そうではなかった。忘れていたが、思想の歴史に関心があったがどう勉強していいのかわからなかった学生時代に、津田左右吉の本を読めと父に言われた。そのときは何か彼をとらえている情緒的知を感じて非常に怖かったのを思い出した。『古寺巡礼』の和辻を読めと文化的にすすめてくる多分ヨーロッパに負けないと構えるこの言葉に躊躇いと後悔を感じないことはなかったが、比べると、津田を読めと言ってくるあの雰囲気は戦前からきた何かなのだろう。否、もしそうならばそれは戦後に隠蔽される何かであるはずだ。津田は戦後も考え方を変えていないということがあるのかもしれない。単純化を避けるべきだが、強いて言うと、和辻は思想の歴史を考えていたらという前提で言うと連続性があったというだろう。偶像を指差してそういうふりをするだろう。津田は彼の専門なのかわからないが思想の歴史に連続性をみとめないだろう。それを認めたら国家に対等でなくなっちゃうというか。しかしシナ文字が日本知識人の思考の発展を阻害したという観察は古代に遡って言われる。「シナ」消去の主張は一貫性がある。さてわたしは思想の歴史は現在もどう勉強していいのか分からずにいるアマチュアであるが、思想に歴史があるとか無いとかをわれわれが言うことにいかなる権利があるのかという問いに惹かれる。法の歴史に連続性は無いが、不連続であってはならない。これは論理的フィクションによる。思想の歴史はもっと複雑にみえるのは言語が関わるからだろうか、到底わたしのようなものに思想史に取り組むことなどは無理なこと。そのかわりに、映画の歴史ならわかるのではないかと思っていた。目に見えるものを対象にするからであるが、しかしこの見通しは甘かった。ヴィットゲンシュタインにおける盲人との対話において示されるように、人間の精神は、そもそも見ること自体を疑うところに来るからである。精神が見えないあり方をしているからかもしれない。映画史も思想史と同様に、見えないものとともに思考していく。結局思想の歴史が二重化しただけだったのではないかと自失茫然しているー此方では思想は見えないものであり、彼方にいっても映像は見えないものがある。絶えず精神は亡霊の如くこの二つの間に彷徨っている

コッポラの『地獄の黙示録』を読む

コッポラを称える

アメリカ人観光客が地図を携えて第三世界を旅行するときはいつどこでテロに襲われるかわからないという『地獄の黙示録』のなかにおいて描かれたような恐怖をもって歩いているのだろう。映画がやれることは少ないが、それ以上のことを伝える。レンズは構造に留まることが不可能な過剰である。レンズからやってきた映画はただの知覚である。映画は自分と似たものを作るだけである。地図はロゴスなき知覚に還元される。多分土地の名のない地図であろう。もはや地図を為さないたくさんの線になぞられた知覚の面というか。国家を制作するのは命名によることだとしたら、映画はこれとは反対のことー国家の解体ーを投射する。そのほかのことは、映画はなにを伝えることができるのかそれほどはっきりしない。映画は自分と似たものを作るだけだと書いたが、映画の際限のない言語は、いつまでも宙に浮いたままであり、決して何かの相似に満たされることはない。映画の徴はいたるところにあるー海に漂う板に、あるいは、映画のなかで不動のまま絶えず動くヘリコプターに


アイリッシュは『地獄の黙示録』を「魔法の絨毯」と嘲弄した。ナショナリズムを呼び出す諸言語における記号的透明性の中で世界に自分が類似している意味を読めないようにするから?


コッポラの『地獄の黙示録』。公開当時はベトナム戦争をこのように描いてはいけないとする映画に対する非難があったけれど、たしかテレビででやっていた。コッポラの構想の大きさを実現することは難しかった。マーロンブランドはなにもしなければしないほど出演のギャラが上がっていった。隙間があっちこっちで見えてしまう。映画制作がout of controlだった痕跡がみえる。この場面だけれど、ヒューマニズムというか子供の安全を非常に気にかけるけれど、サーフィンをするためならば村をナパーム弾で焼き尽くすことは全然かまわないこのアメリカ人の矛盾をどう表現するかは、撮影監督ヴィットリオ・ストラーロにかかっていた。酷く非現実的なピンクと黄色の煙からうつろな言葉が滑るようにでてくる。何とアメリカ人はサーフィンする海をバックに自己に投射した戦争を語り伝えるのだ。嫌悪感と恐怖に囚われながら、自己の中の言葉にできない闇の内部を吐露するように崇高な詩を作る “I love the smell of napalm in the morning." このヒロイズミは何もかもおなじで区別がない。世界を戦争にする狂気とはこれだと映画は伝える、と大袈裟に書くと、おまえはロマン主義といわれてしまうのでほどほどにしておこう(昭和維新ロマン主義で沢山だ。) 演劇にしたら面白いかもしれない。舞台で伝える。アメリカ人観光客はこういう思いで第三世界を旅行しているだけのことなのだと。こういうのは、脚本におけるロゴスの構造をもつ演劇が得意としてきた領域だ。だがロゴスなき映画ができることは少ない。カメラは構造に留まることが不可能な過剰である。レンズからやってきた映画はただの知覚である。映画は自分と似たものを作るだけである。地図は知覚に還元される。多分土地の名のない地図であろう。もはや地図を為さないたくさんの線になぞられた知覚の面というか。国家を制作するのは命名によることだとしたら、映画はこれとは反対のことー国家の解体ーを物語る。そのほかのことは、映画はそれほどなにを伝えるのかがはっきりしない。こちらの読みを、闇のなかで笑う映画か?原作のコンラット『闇の奥』はポストコロニアリズムにおける読む可能性をもっている。

フーコ『言葉と物』

フーコ『言葉と物』の序文と第十章が重要な理由は何か?ラテン語の「世界という散文」よ、さようなら、と、西欧はそれ自身からの異別化を行った。近代はそれによってヨーロッパ中心主義へ行く。形式化された普遍言語を切り開く。この知は地球の隅々までを支配した。日本の近代化は他の地域の近代化と比べてこの近代によって漢文の前近代をゼロにするほどの極端へ行く。一見最高の知をもつことができたが、問題は、それと同時に、帝国主義をもたらした。このヨーロッパ中心主義の克服は、構造主義と音声化の方向によって可能なのか?後者はたんに前者を対抗しただけではなかったか?第十章はこのことを問うた。人文科学を再構成すること。そのためには、マラルメの別の読み方が要請される。構造主義の言説から言葉を奪回する意味の大きな役割を考えてみよう。そうして『言葉と物』の第二章の重要性もみえてきた。「世界という散文」を「国語という思想」に置き換えていく永久革命の様相を示す近代「知」の表象性を批判するフーコの議論はこの章からここからはじまるといえないことはない。『言葉と物』は、復古主義でも伝統主義でもない日本近代のナショナリズムの正体を明らかにできる。

フーコ

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「不条理が列挙された物々の分けられる場所である<なかで>を不可能にすることによって、列挙される<と>を崩壊させてしまう」ー フーコ『言葉と物』序章

(本居宣長が「天」を「あめ」と読ませてそれがなんの意かわからないと注釈しだが、このやり方は<なかで>を不可能にした。子安氏の指摘によると、漢字を意味なき記号としてしまえば思考の崩壊が起きるだろう。つまりファシズム的である。日本人が宣長を好きな理由がここにある。他者との間に、独立した彼方と独立した此方という境界線をひいてしまう。)