2018-01-01から1ヶ月間の記事一覧

ウルフとジョイス

「モダニズム」精神といえば、ウルフとジョイス。近代は自らを、過去の全体を投射する<内の読み>を住処にした。それが読みならば、ずっと私にとって読んだといえないままかも。何故か?書記言語はこの逆の方向から、近代の失敗を投射してくるような死に切っ…

MEMO 2018

「俺のボタンの方が核の威力がある」の話、学生服のはずされた金ボタンを思い出した(「不良」の徴とされた。) 喧嘩する核のボタンも街の不良ボタンも、「介入してくる外部」。外部から、「守らなければならない内部」があるかの如く反応するのか?日本ナショ…

マルクスを語る映画

近代は他者である誰のことも思考できない。(思考できたらそれは他者ではない。)知は自らを思考できるだけだ。知は隠蔽的に起源を措定する自らを称え憎むことを繰り返すー他者の名を以て。内部の語りの映画マルクスは、「宣長問題」と同様の、「マルクス問題…

人間の根底に、言葉を住処とする投射が存在するか?

フェリーニは映画ポスターを描いていた時代があったし、ゴダールは映画に行く前は画家だった。50年代60年代の映画ポスターは絵画の前衛的抽象アートと大衆的写真リアリズムとの折衷である。映画に広い範囲の観客たちが集まってきたことを告げるこの痕跡は、…

21世紀の思想たりうるか?

21世紀の思想たりうるか?普遍主義は普遍主義、貨幣は貨幣である。特殊の普遍が成り立たないように、商品の貨幣も成り立つことがない。投射は連続的に安定しているようにはみえない。つまり普遍主義による知は、普遍主義であるかぎり「アジアに向かって投射…

朱子の自然哲学

昨年末から12世紀朱子の鬼神論の読みが「論語塾」ではじまった。なぜ朱子の自然哲学を読むのか?こういう風に読めると学ぶとき、近代日本語のほかに中途半端なヨーロッパ語しか知らないこの私にも、読める数行があるんだと感動する。古典世界の煌めきが一瞬…

朱子の自然哲学

昨年末から12世紀朱子の鬼神論の読みが「論語塾」ではじまった。なぜ朱子の自然哲学を読むのか?こういう風に読めると学ぶとき、近代日本語のほかに中途半端なヨーロッパ語しか知らないこの私にも、読める数行があるんだと感動する。古典世界の煌めきが一瞬…

人類皆平等について考える

‪「人類皆平等」の近代は、フランス革命から始まったことは確かだ。だけれどナポレオンの共和主義の反対に行くことになる方向を、あのベートベンですら、見抜くことができなかったエピソードを読むと、何が「人類皆平等」であるかの判断は簡単ではないのであ…