'世界史の構造' は、ヘーゲルの目覚めることができない悪夢

'世界史'の構造は、ヘーゲルの目覚めることができない悪夢

東アジアにおいて抑圧されていく歴史の記憶。安倍の戦争責任の忘却、2・28事件の忘却、光州事件の忘却、天安門事件の忘却。福島の3・11の忘却。誰が抑圧するのか?ネオリベのグローバリズムである。どのように?民主主義に対する抑圧の歴史を、国家を祀る神話に置き換えることによってだ。この意味で歴史は1%の所有物になろうとしている。と同時に、(歴史を未来に伝える領域である)「公」がこの1%の所有物となってきた。抵抗として、「公」に立つ学生・市民達が現れたのが、台湾の3・18。フーコの本が「言葉と物」とあるのは冗談だが、ネグリもコモンウエルズの語を皮肉った。それは、米国や国連の如き主権国家をモデルとした脱国家主義、(国連軍か集団安全保障かで盛り上がる) 不毛な概念だから。帝国としてのグローバリズムに抵抗できるのは、ただ、政治的な次元における「存在としての共通性」だけだ。全員がマイノリティーの特異点達に成るのは難しかったードゥルーズが言うようには。現実はポピュリスム全体主義は、取り込んだ少数派を利用し全体主義を多様化した。反省として階級の視点が再び説かれたとき、柄谷は、天安門事件に階級の不在をみた。抵抗する人々の姿を見ないふりか見なかった (今日マスコミが台湾を見ないように)。スティーブン=ハムレットが叫んだように世界資本主義から目覚めなければならない。が、目覚めるには、シシエクが畏怖したフィネガンズウエイクの如く夢を発明し続けるしかない。これが'世界史の構造'である。世界資本主義をコントロールする客観的精神である礼としての毛沢東像を指さすことになったのか?