「論語」は時代遅れということを遥かに超えています。原初の本の名である、徹底して<反時代的な>本の名が、「論語」

論語」は、道徳先生の時代遅れの本か?憲法前文以上に、読者の前で、人間の人間関係に即した道徳性しかないと徹底してくるくせに、道徳とはなにか?という定義を一切しようとはしない「変わり者」です。「理屈屋」さんでもあるので、ただ道徳の領域があるとすれば、それは武力に頼る政治によっては成り立たぬことだけは確かだ、と説得してきます。「平和主義者」であろうとしますから、集団的自衛権に頼る政治ならば「筏」で逃げよというはず。つまりどうやってこの力に頼る政治を止めさせるかを考えよう、と。「変わり者」「理屈屋」「平和主義者」、すなわち「論語」は時代遅れということを遥かに超えています。原初の本の名である、徹底して<反時代的な>本の名が、「論語」です。

公治長第五第六章
子曰、道不行、乗筏浮千海。従我者、其由也与。子路聞之喜。子曰、由也好勇過我。無所取材。
子の曰く、道行われず、筏(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従わん者は、それ由か。子路これ聞きて喜ぶ。子の曰く、由や勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無からん。
(訳) 孔子がこういわれた。道が行われる世ではない。筏に乗って海に浮かび出ようか。私についてくるのは、きっと由だろう。子路はこれを聞いて喜んだ。子路が喜ぶのを知って、孔子はいわれた。由の勇を好むことについては私も及ばない。しかし筏に乗ると勇み出ても、筏を組む材木をどこで一体手に入れるというのだ。しかし筏に乗ると勇み出ても、筏を組む材木をどこで一体手に入れるというのだ、由は勇み出るばかりで、備えがない。