エクリチュールとして大正を読むことは、明治と昭和の間の距離を深めていくこと ーひとは大正を読むときに、ひとは大正を忘れようとするのはなぜなのか?

ひとは大正を読むときに、ひとは大正を忘れようとするのはなぜなのか?

なぜ日本のデリダ主義者はもっと日本の暴力の問題を積極的に分析しようとはしないのでしょうか?たとえば、エクリチュールとして大正を読むことは、明治と昭和の間の距離を深めていくことです。つまり大正における政治の<エクリチュール>はいかに、明治と昭和のランガージュに従属していくかを問うことにほかなりません。大正に社会主義が大罪とされた「大逆事件」の痕跡は、戦後民主主義の記憶から消されていきます。(思想裁判に対する訴えが再び思想裁判によって棄却されているという異常な事態です。つまり「大逆事件」は「大逆事件」のままです)。そうして、大正が自らを(戦争のせいで果たされなかった)民主主義の起源と表象する善き声として規定するのはまさに、この忘却において可能なのだといえる
です。

(しかし帝国主義の大正の民主主義が戦争を引き起こしていったのではないか、善き声そのものが破たんしていたのではなかったのかとははっきりと問われたりはしなかったのです)