河上筆「貧乏物語」を読む

河上筆「貧乏物語」を読む

エピクテトス的に、大杉栄は、この道(監獄)の内部の他(脱出する自身の思想)を問うた思想家でした。大杉はこう言いました。「大逆事件の審判中、閣僚、大臣は一人も傍聴に来なかった。最初は捕らえた者二十四人に死刑判決を下して国民を脅し、その後半数の十二名に恩赦を与えて機嫌を取って、残りの十二名は反論も聞かず死刑。否、死刑ではない。暗殺である。せめて死骸になったら一滴の涙位はあっても良いではないか。」さて この大杉がいくら大逆事件の無関心を非難しても、「貧乏物語」の河上筆は国の弾圧が全く無かったかの如く「教育勅語」の国へ行く、「貧乏」から解き放たれた「魂」を物語りました。河上は「教育勅語の言葉」を借りてこういうのです。「本来より言わば、肉は霊のために存し、知もまたひっきょうは徳のために存するに過ぎざるがゆえに、人間生活上におけるいっさいの経営は、窮極その道徳的生活の向上をおいて他に目的はない。」こうして、「貧乏物語」は、監獄の国家が社会主義を包摂する物語、第二インターナショナルへ直進していく物語だったといってはきめつけかもしれませ...んが、ただ彼が言う、魂の声のようなものが「資本論」の特権性を刻印していったことは見逃せない点なのであります。実際にプロレタリア文学は、当時河上が翻訳するために手に入れた「資本論」をどのようにみていたのでしょうか?

「ちょっと見せたまえ、ヘヘー、マルクス全集、第一巻※(ローマ数字2、1-13-22)か、資本論か、それや君、社会主義の本じゃないかい」藤原は、自分もその本を非常に読みたく思っていたが、あまり高価なので今まで買うことができなかった。(海に生くる人々)

大正時代の出版社の宣伝は、「知を上流階級から取り戻せ」でしたが、まさか世界文学全集を読んだくらいでは知を取り返すことは幻想だと渡辺一民氏が指摘していたことです。いかにも幻想が直ぐに剥げてしまいそうな大衆時代の到来を告げる言葉ですが、しかしある一冊だけが例外でした。今日河上柄谷行人佐藤優の、かくも特権性をもって、あのようなギリギリ危うい帝国と民族主義の言説を平然と展開するのも、彼らの「資本論」を読んだというこだわり、日本知識人に顕著なある種の特権性に依るといえるかもしれません。問題は、どういう衣装がそのこだわりと特権性を表現できるのかです。柄谷と佐藤優の場合、それはほかならない、上流階級に憧れるスノビズムな衣装なのではないでしょうか。

資料;「わたしははすなわち言う。人間としての理想的生活とは、これを分析して言わばわれわれが自分の肉体的生活、知能的生活メンタルライフ及び道徳的生活モーラルライフの向上発展を計り――換言すれば、われわれ自身がその肉体、その知能マインド及びその霊魂スピリットの健康を維持しその発育を助長し――進んでは自分以外の他の人々の肉体的生活、知能的生活及び道徳的生活の向上発展を計るがための生活がすなわちそれである。さらにこれをば教育勅語中にあることばを拝借して申さば、われわれがこの肉体の健康を維持し、「知能ちのうを啓発し、徳器を成就し」、進んでは「公益を弘ひろめ、世務を開く」ための生活、それがすなわちわれわれの理想的生活というものである。否、私は誤解を避くるためにかりに問題を分析して肉体と知能と霊魂とを列挙したけれども、本来より言わば、肉は霊のために存し、知もまたひっきょうは徳のために存するに過ぎざるがゆえに、人間生活上におけるいっさいの経営は、窮極その道徳的生活の向上をおいて他に目的はない。すなわちこれを儒教的に言わば、われわれがその本具の明徳を明らかにして民を親しみ至善にとどまるということ、これを禅宗的に言わば見性成仏けんしょうじょうぶつということ、これを真宗的に言わば、おのれを仏に任せ切るということ、これをキリスト教的に言わば、神とともに生くということ、これをおいて他に人生の目的はあるまい。しかしてこの目的に向かって努力精進するの生活、それがすなわちわれわれの理想的生活であって、またその目的のために役立ついっさいの消費はすなわち必要費であり、その目的のために直接にもまた間接にもなんら役立たざる消費はことごとくぜいたくである。」(河上筆「貧乏物語」)