普遍的に開かれていること、と同時に、差異が開かれていること。これは、包摂されまいとする市民の思想として「議論できる」と思います。

' THE MIRROR & THE MASK'と題した本に紹介されている絵画を掲示板に投稿していますが、PORTRAITURE IN THE AGE OF PICASO という副題がついている理由はなにでしょうか?例えば、私が「美しい」と感じる未開社会の仮面を、「醜い」と感じる人に説得できるとは思いません。趣味判断は多様、そこに万人が議論を経て承認していく普遍性など存在しないように思われます。ただ、対象の根底に対象を包摂する文化的なものが存在するかの如く方法的に語るだけでしょう。そうしてピカソの20世紀の芸術家たちは、アフリカの仮面を利用して肖像画の制作を行ったことの理由が想像されます。「判断力批判」のカントはこうした事柄を理論化しました。柄谷行人が、21世紀の問題の解決を考えたときに、このカントの文化論的な読みに規定されていたと考えています。ただし文化的なものが先行するという包摂の言説を展開していくことになりました。いくらかれが構成原理を批判しても、「帝国」論のような包摂の統整原理を構成的に使用し始めたことは明らかです。だからグローバル資本主義に抵抗する人々が、市民という理念を、既に確立した観念とは無関係に、「議論できる」新しい思考の呈示として再構成していくときに、柄谷の「帝国」論はこれとは正反対の方向に向いています。分割したグローバル資本主義の諸関係が(連続的な)「世界史の構造」を住処としていると物語ること、そしてそれぞれの「帝国」を予定調和的な文化的なものを平和的に映す実体ときめつけています。そこで「帝国」は文化的であるゆえに、趣味判断と同様に、「議論できない」実体となります。しかしこれがいかに政治的に危険な言説であるかは、言説の構成的使用の危険性を警告してきた柄谷自身が知っているはず。現在、それに対して言いたいことはこれです。普遍的に開かれていること、と同時に、差異が開かれていること。これは、包摂されまいとする市民の思想として「議論できる」と思います。